母を動かした「無為のことば」

「人を動かす言葉」って何だろうと考えるとき、

ぼくは20年前の自分を思い出す。

2002年くらいだったと思う。

ぼくには、9つ年の離れた弟がいる。

彼が中学に上がる前後のこと。

母が神妙な面持ちでいった。

「お母さんね、また働こうと思うの」

その言葉の重みが、

20歳前半のぼくには分からなかった。

ぼくを生んで会社を辞め、

20年以上、専業主婦だった人が、

ひさしぶりに「社会復帰」する。

気楽なアルバイトしかしたことのないぼくには、

その「意味」がわからずに、

何気なく一言を返した。

「あ、そう。好きにやったらいいんじゃない?」

当時のぼくは大学3年生。

恋をしたり、アルバイトをしたり、合気道をしたり、

やりたいことしかやっていなかった。

「人生って自由でいいな」

なんて、親のすねをかじりながら、

のんきに生きていた。

そんなぼくだからこそ、

「おかんも、好きなことやったらいいやん」

という気楽なノリで、生返事を返したのだった。

しかし、のちのち聞いたところによると、

母は、そのぼくの言葉で

「よし、やっぱり働こう!」

というハラ決めをしたらしい。

「あなたの言葉が、背中を押してくれたの」

とのちになって母は言った。

しかし、当の本人は、すっかり忘れていて、

「そんなこと言ったっけ?」

とポカンとしてしまった。

そうして考えてみるに、

そのときのぼくの言葉は、

「無為のことば」

だったのだ。

「なにげない」
「何も考えていない」
「相手のことを思い遣ろうともしない」

パッと、とっさに、なんとなく、

励まそうともせず、応援もせず、背中を押す気もなく、

口をついた言葉。

それが20年前の母を動かした。

ここに「無為」の凄みを感じる。

誰かを励まそうとか、

元気づけようとか、

気づきを与えようとか、

そういう「作為的な言葉」は、

相手の「抵抗」を生んでしまう。

表面上では

「ありがとう」とか「元気になった」とか

「勉強になります」とか言ったとしても、

「内側」は動いてこない。

変容につながらない。

けれども、

「ぽんっ」と出た言葉は、

相手の抵抗をすり抜けて、

「スッ」

と相手に入ることがあるのです。

ここに、説得とか説教にはない、

「ことば」

の面白みがある。

「ホンネ対話」の極意は、ここにあります。

「フッと湧き出たもの」がポンっと伝わる。

「私はこう感じました」と表すだけ。

伝えるんじゃない、表すだけ。

「ただ表現する」

結果は気にしない。

しかし、結果を気にしないその関わりこそが、

結果的に、もっともベストな結果を生む。

そこにまた「無為のことば」の面白みがあるのです。

「こんなこと言ったら怒らせるかも?」
「これを言ったら傷つけるかも?」
「これを言うと、あの人はなんて思うかな?」

いろいろなエゴの作為が、

人の心には表れてきます。

もちろんそれも必要なことですが、

一度それを超えて、

「無為のことば」

を表現してみる。

そこに、偶然的かつ必然的に

実ってくる「結果」がある。

そしてまたその「結果」を

しっかり体験し、味わい、感じ尽くす。

その中でまた次の

「よろこばしい結果」

がやってくるのです。

「花咲かじいさん」は、「無為」の象徴です。

「イジワル爺さん」は、「作為」の象徴です。

「無為」というのは、

「何が起こるか分からない世界観をたのしむ」

ということであり、

「何が起こっても受け取り、よろこぶ」

ということでもあります。

そんな世界って、

ファンタスティックで、ワンダフルで、

とってもビューティフルで、

無限の可能性を秘めていると思うのです。

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「無為のことばを投げかけあい」
「”何が起こるか分からない”を楽しみ」
「自分のなかの想像もしない自分に出会う」

「ホンネ道場」
https://03auto.biz/clk/archives/qjcxjv.html

明日21日24:00にて募集締切です。

次回募集時期は未定。残席2名。

ご興味をお持ちの方は、まずは一度

おぜっきーとお話ししてから受講するかどうか

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