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愛されることも怖い、嫌われることも怖い

誰だって、嫌われるのはこわい。

「別に嫌われるの、かまわないんで」

と嘯いている人もいる。

けれども、それは大して関係のない大衆であったり、SNSのアンチだったりするわけで、

ほんとうに大切な人から嫌われるのが怖い人はいないんじゃないかと思う。

そしてぼくらは、愛されることもこわい。

正確にいえば、愛されていることを認めるのがこわい。

愛されていなければ、不満や愚痴を垂れていられる。

愛されていなければ、スネたままでいられる。

愛されていないから、という理由で「復讐」することもできる。

けれど、愛されていたら、失うかもしれない。

愛されていると感じてみて、それが勘違いだったら恥ずかしい。

愛されているかもと喜んで、それが嘘だったら傷つく。

だから僕らは意外にも

「愛されていない」ことを選ぶ。

「愛されていない」ことにしておいたほうが、傷つかないんだ。

「愛されている私をゆるす」。

それはひとつに、親をゆるすことだ。

「ああ、あれも愛だったんだ」

それを認めるのは苦痛かもしれない。

「あんな形の愛なら要らなかった」

そう言いたい気持ちもあるでしょう。

「あんなのが、愛なわけはない」

そう言いたい気持ちもあるでしょう。

ぼくの父もワーカホリックだった。

ぼくよりも、仕事が好きなんだろうと思っていた。

褒めたり叱ったり怒ったりしない父親だった。

じいちゃんに過干渉された父は、ぼくに非干渉だった。

それはきっと

「お前の自由にやれ」

という愛だったんだろう。

ただ、ぼくにとってはさみしかった。

今となっては「さみしかったのだろう」という感覚しかない。

いずれにせよ、そこにある

「すべての気持ち」

を大切にしていきたい。

幼いぼくの、「さみしかった」であろう気持ち。

そして、我が子を愛そうとしたがゆえに非干渉であった父の気持ち。

お互いの、うまく伝わらぬもどかしさ。

そのすべてを、

「そうだったんだね」

のひとことで許していく。

そうやって、「愛されるリスク」を取る。

「大好きだよ」を伝えるリスクを取る。

大好きなのに否定されるリスクを取る。

そのリスクの上にしか、最上の愛は存在しない。

嫌われるのは怖い。

愛することも、愛されることも怖い。

でも、やる。

そこに、至上の喜びがあると思うから。



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