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エッセイ「言葉の話」

何かが失われていく

「ロスト・イン・トランスレーション」(2003年 /ソフィア・コッポラ監督)という映画があります。

東京を舞台にビル・マーレイとスカーレット・ヨハンソンが人間関係をこじらせるという話だったように記憶しています。(もう見たのが10年以上も前なので、少しあやふやになってしまっていますが。)

日本人が当たり前だと思っている文化が、外国人からしてみればいかに奇異に映っているかの描写に、ハッとさせられる映画だった気がします。

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この映画は、タイトルが美しいな、といつも思っています。ロスト・イン・トランスレーション。愚直に直訳すると「翻訳の中で失われる」ということになるでしょうか。

日本語から英語へ、英語から日本語へ。言葉が変換されるときに、元の言語が持っていた大切な意味やニュアンスが変容し、欠落してしまう切なさが、とてもよく伝わってくるタイトルであるように感じます。(映画本編は言葉の問題だけではなく、さらに意味合いが広がって、異文化や人間関係をはじめとした、価値観の相克がテーマとして取り上げられていたと思います。)

さて、今回はこの映画自体に言及するつもりはなくて、この「翻訳の中で失われる」というような現象が、実は日常的に起こっているのではないか、と思っていることを取り上げたいと思います。

言葉を信用していない

誤解を生む言い方になるのはわかっているのですが、僕は言葉というものを、あまり信用していません。

文字を投稿していきたいと思ってnoteを開設した人の最初期のテーマがそれでいいのか、という思いもあるのですが、言葉を取り扱う以上、いかにして慎重に付き合っていくかを意識しておくことは、悪くはないのではないでしょうか。

小見出しの意味は、言葉を発する人間を疑ってかかっている、ということではありません。情報を伝える媒体としての言葉は、あまり信用ならないなあ、と思っている、ということです。

言葉は、言葉として意味を持つ以上の感覚や概念を相手に伝えることができないからです。

言葉が伝わらない、という趣旨のことを伝えたいので、非常に伝えづらい話になってしまうのですが、以下のようなことです。

たとえば、とらえどころのない不定形の感覚があって、それを外部に出力したいんですけど、どうしても『言葉にならない』時があると思います。

それを我々は、なんとか言葉を尽くして誰かに伝えようとします。そうすると、例えば「冷たくて」「しっとりとしていて」「じわりと汗が滲んでくるような」感覚で…という風に、既にある言葉の中から、そのいい知れようのない感覚の、部分部分を切り取って表現していくしか無いわけです。

でも、その言葉と言葉は、不連続であって、地続きではありません。伝えられた側は、与えられる言葉の部分の要素をつなぎ合わせて、感覚の総体を想像していく必要があります。

そして、伝えたい本人が感じている感覚の総体と、伝えられた側の人間が想像する感覚の総体は、言葉と言葉の不連続性の間で失われた微妙なニュアンスのズレによって、決して一致することはないと思うのです。

言葉の不連続性の間で失われる微妙なニュアンスとは、それこそ言葉にならないものなので、「『もにょっと』していて」「『ぬもん』としていて」「『くわっと』していて」とか、ふわっとした表現にならざるを得ない感覚であり、フォーマットに則って規定された共通の感覚ではないわけですから、伝わるわけがありません。(むしろ、このような曖昧な表現を使うことによって、感覚の実態と想像の感覚の一致が、さらに遠のく場合もあるでしょう。)

また、言葉は既定の意味しか伝えることしかできません。「冷たい」は、冷たい以上のことを、「しっとり」はしっとりしている以上のことを、「じわりと汗が滲んでくるような」は...人の感覚によりけりかと思いますが、それぞれが伝えようとする感覚の表層でしかなく、実態そのものではないことが多いと思います。

伝えようと思う感覚の実態の深層にたどり着く表現が存在しないので、非常にもどかしい気持ちになります。(まさにこの気持ちを、言葉を尽くして、どう伝えたら良いのでしょうか。)

ここまで言葉を発信する側と受け手の、言葉を媒介にしたコミュニケーションにおける不和を例に挙げましたが、同じようなことは日常的な会話の中でも多様な形を持って現出していることと思います。言葉にしたがために、失われていくものは、少なくないはずです。「なぜこんな簡単なことが伝わらないのか」という現象は、まさに言葉を媒介にしているがために起こる悲劇なのかも知れません。

失われていく何かを埋め合わせる

当たり前のことですが、言葉はあくまで、伝えたいことを伝えるためのツールであり、言葉そのものを伝えることが目的ではないということを忘れてはなりません。

僕自身も伝わらないからと言っていらっとすることもたまにありますが、冷静になって「所詮、言葉の力など、この程度なのだ」と思うようにして、伝えるアプローチを変えるようにしています。

自分の発した言葉が伝わらない時は言葉のバリエーションを変えてみるとか、相手が言っている意味がわからない時はその見方を変えるなどして、「伝えたいことの実態」と「伝えられる側の想像」の価値観を一致させていく努力をしていく。

すなわち『言葉の応酬の中で失われていく何か』を埋め合っていく作業をすることが、言葉を用いるコミュニケーションの美しいあり方ではないでしょうか。

もっともnoteの用にほぼ一方通行で発信する媒体の際には、読んでくれる人に誤解を与えるような言葉遣いをしないよう、気をつけていけないとな、と思います。

2020年5月7日


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