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バカは死ななくても治る

人は自分がバカと呼ばれることを、異常に嫌う傾向がある。自分を堂々とバカだと称していたのは、アホの坂田をキャッチフレーズにしていた漫才師の坂田利夫師匠と、バカの天才と自ら呼ぶ、落語家の林家木久扇師匠しか、私には思い浮かばない。

自分が自ら謙遜していっているバカは許せるが、人からまともにバカだといわれるのは絶対に許せないのが人という生き物だ。

ところが、自ら振り返ってみると、私はバカではなかったかとしみじみ思うときがある。人からまともにバカといわれるのは、はらわたが煮えくり返るが、意外と自分ではバカと思うときがよくある。

私は自分でいうのもなんだが、善人だと思っている。ときには汚いことやウソをつくこともしており、叩けばいくらかのホコリは出るが、全般的には善人である。

決して詐欺師にはなれない。人をだまして堂々とは生きていけない。ささやかなウソをついても、なんともいえない気持ち悪さに襲われる。そんなものが集団で襲ってきたら生きていけないからだ。

海外にまで行って、パソコンやスマホに囲まれながら、猫なで声で電話をして、見知らぬ土地で信用できない人たちと.、共同生活を送る特殊詐欺グループに入るのは、到底私には無理だ。

人をだますのは、信頼を躊躇なく捨てなければできない。せっかく信頼を得たのに、なぜあっさりと捨て去るのだろうか。信頼されることはとてもありがたいことと思えば、簡単に信頼を捨てることはできない。だまして、物質や金品を得て、得したという気分は味わえるが、それはルール違反を犯して、取得したに過ぎない。堂々と得たものではない。

ささいなウソはいえるが、ダマす行為は私にはできない。
歳を重ね、自分を客観的に見るようになると、いかに己がバカだったかを強く自覚する。

私を理解しない、あるいは嫌っている人に対して、好きになってもらうのは、自分が努力すれば可能だと錯覚していた。

もちろん、はじめは嫌われていたが、ときが経ち、好かれるようになった人もいるが、今から考えれば、到底好かれるはずのない輩に対しても、私は媚を売っていたことがあり、恥ずかしい限りだ。

例えば、イエスマンをこよなく好きな人物がこの世には存在するが、そういった人物のイエスマンに成りきることができない私が、好かれようと努力していたのだ。お笑い草な話だが、それが現実であり、私のバカさ加減をあらわしている。

できるものはできる、できないものはできない、この世にはその法則が当てはまる事項があるのをときに失念するのだ。
付かず離れず、傍観する術を私は心得ていなかった。だからバカ正直に突進していって玉砕を繰り返していた。

人に期待して、裏切られて、がっかりする。「おれとお前は親友だ」といって難しい頼みごとをしてきて、望みをかなえても「ありがとう」の一言で精算し、こちらが困っていても我関せずを貫き通す。そんな人物にバカ正直に対応してきた。

バカバカしくてやりきれないが、それをしてきた。
私の家内も私と同等、それ以上にお人好しだ。家内にはバカという言葉は使いたくない。彼女は相手の汚さを十分知っていたが、それを打ちのめすと、がっかりする人、悲しむ人がいることを考慮して、「悪人」に対しても配慮してきたのだ。

「悪人」は親切な対応をされても、特別な配慮をほどこされても、感謝しない、ありがたいと思わない人たちだ、それが当たり前だと解釈しており、過酷な要求も当然のようにしてくる。

約束の不履行、だまし、身勝手な行動等は「悪人」にとっての日常行動だ。だから、ウソをつかない、小心者のバカができるのは「悪人」に対しての配慮を手放すことだ。

自分をバカだと認識すれば、怯えや恐れ、不安は軽減される。

他人からバカだといわれたら、にこりと微笑み返して「バカですよ」といえる余裕があれば、人生は今より楽に生きていける。

清水次郎長の子分,森の石松が「バカは死ななきゃ治らない」といっていたが、私はバカは死ななくても治ると思っている。
年齢を重ねても、思いもかけぬ発見は多い。まだ学習できる。バカであっても、学べば賢くなれるのだ。

バカは治せる。そう思えば、人生、まだまだ楽しいですよ。


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