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【鎌倉 二階堂エリア】 久しぶりの鎌倉⑩ (2019.11.17)

(※この記事は過去にアメブロへ投稿した記事をほぼ転載しております)

鎌倉散策記事⑩。
今回はようやくこのシリーズ最終回【二階堂エリア】になります。


前回大倉御所東御門の石碑のほぼ向かい側に東へ延びる路地が一本あるので、そこを入って行きます。

すると、ほどなくしてこちらの場所に到着✨

こちらが荏柄天神社えがらてんじんしゃの前です。荏柄天神社は正式名称を荏柄神社といい、頼朝が鎌倉入りする前からある神社です。御祭神は天神様こと菅原道真すがわらのみちざね、他には八雲大神スサノオノミコト伊弉諾命イザナギノミコト伊弉冉命イザナミノミコト天鈿女命アメノウズメノミコト(芸能の女神)を祀っておりまする😌

はい、こちらにもしっかりありますよ。
鎌倉青年団の石碑、その20「荏柄天神」です✨
(これで今回の鎌倉青年団の石碑ラストです^^ホントはこの次の目的地にも石碑はあったのですが、撮り忘れました~)

さぁ、早速社殿へ向かってみます。

この社殿は関東大震災後の鶴岡八幡宮の仮殿だったそうで、荏柄天神社の社殿は鶴岡八幡宮の社殿を移築するのが慣例なんだそうです(奥富敬之『鎌倉史跡事典』)。

なお、この荏柄天神社は大宰府天満宮だざいふてんまんぐう(福岡)、北野天満宮きたのてんまんぐう(京都)と並ぶ日本三大天神の一つとされております。御神紋である「梅鉢うめばち」が社殿の随所にあしらわれておりまする。

こちらの社務所では御朱印も受け付けられていたので、いただきに。

今回は坂ノ下御霊神社さかのしたごりょうじんじゃ宝戒寺ほうかいじ、そしてこちらの荏柄天神社の3ヶ所しか御朱印をいただけませんでしたが、次回鎌倉散策する際には、もう少し神社仏閣を訪れるつもりでいますので、この御朱印帳が鎌倉の寺社の御朱印でいっぱいになればいいなと思います。

さて、こちらの荏柄天神社はちょうど大倉御所の北東(鬼門きもん)にあり、頼朝は大倉御所を建設するに当たって、この荏柄天神社が鬼門の守護となるように場所を選定したといいます(『鎌倉史跡事典』ほか)。
鬼門というのは陰陽道おんようどうにおいて陰悪の気が集まり、邪悪な鬼が出入りする方角とされて、忌み嫌われた方角です。

ただ、頼朝さんはこの鬼門というものにかなりの神経を使ったらしく、この荏柄天神社だけでは飽きたらず、さらに大寺院を大倉御所の鬼門の方角に建立します。

それではその大寺院があった場所へ行ってみたいと思います。


荏柄天神社を出て、北東方向に進みます。すると、正面に鎌倉宮かまくらぐう護良親王もりよししんのう大塔宮おおとうのみや〕を主祭神とする明治2年に建てられた社)が見えてきますので、その鎌倉宮に突き当たったら、右へ。鎌倉宮の境内に沿うように北東方向へ延びる道(これが鎌倉六大路の一つ、二階堂大路)にぶつかるので、その道をさらに北東へ進んでいきます。

さぁ、着きました✨
こちらが今回最後の目的地となります、永福寺ようふくじです。

東京に永福えいふくという場所があるので、つい「えいふくじ」と呼んでしまいそうですが、鎌倉のは「ようふくじ」なので、注意してくださいね。

永福寺は宇治平等院鳳凰堂の拡大版みたいな感じの建物がメインで、いわゆる浄土式庭園を持つ寺院でした。ちょうど現地の案内解説板に再現CGがあったので貼っておきますね。
(ムリに拡大してあるので画像が粗くてごめんなさい…)

こんな感じだったみたいです

建物は東を向いて建てられ、建物の背後が西、手前が南、奥が北になります。この世に西方浄土の様子を再現するために、建物の前面に大きな池を配置するのが浄土庭園の特徴で、建物の向きなどは東を向いていることが多いです(宇治平等院もそうなっています。ただし例外も結構あります)。

また、この永福寺は鶴岡八幡宮寺つるがおかはちまんぐうじ(現在の鶴岡八幡宮)、勝長寿院しょうちょうじゅいんと並んで頼朝が創建した三大寺の一つでもあります。

さて、ここの永福寺の創建された時のことを『吾妻鏡』の日付によってお話ししますと、頼朝が奥州合戦(鎌倉政権v.s.奥州藤原氏の戦い)を行った直後の文治ぶんじ5年(1189年)12月9日に平泉中尊寺ちゅうそんじ大長寿院だいちょうじゅいん二階大堂)を模した寺院を建立することを計画し、建久けんきゅう2年(1191年)2月15日、その寺院を建立する場所を選定、着工しました。三善康信みよしやすのぶ二階堂行政にかいどうゆきまさ(当時はまだ工藤行政と言いました)、藤原俊兼ふじわらのとしかねといった、いわゆる事務方チーム3名が奉行(指揮監督する人)となりました。

計画から着工まで少し間が空いているのは、奥州で藤原氏の残党・大河兼任おおかわかねとうの乱があったり、飢饉や頼朝の上洛などがあったためです。

しかし、その後も建久2年(1191年)3月4日の鎌倉の大火などで工事は遅々として進まず、本格的に工事が始まったのは翌建久3年(1192年)に入ってからでした。

覚えておいででしょうか。鎌倉散策記事③景清窟かげきよくつを紹介した時、藤原景清ふじわらのかげきよ(平景清)の兄である藤原忠光ふじわらのただみつが工事現場の人夫たちの中に混じって、視察に来た頼朝の命を狙おうとしていたのにバレて捕まった話を。それはこの永福寺の工事現場でのできごとで、建久3年(1192年)1月21日のことでした。

その後、工事はどんどん進められ、犯土ぼんど(土を掘ったり動かすこと)や営作(建物を建てること)には、北条義時ほうじょうよしときなどの有力御家人自ら働き、重い建材を網で引き上げたり、運んだりするのは畠山重忠はたけやましげただ佐貫広綱さぬきひろつな工藤行光くどうゆきみつ下河辺政義しもこうべまさよしといった脳筋…力自慢の御家人チームが担当したようです。

8月24日には近国の御家人たちに各3名ずつの人夫を出させて、永福寺の境内の池を掘らせて頼朝も視察し、27日には作庭が得意の僧・静玄を召して、堂前の池に立てる各地から取り寄せた数十もの石の配置を話し合い、9月11日にそれらの石が立てられました。その時大活躍だったのは畠山重忠で、彼は石を持ち上げて一人で池の真ん中まで行き、そこにドンっ!!
見る者みなその大力に感心したそうです…(いや、逆に引いちゃうわ…笑)

10月25日には永福寺の惣門そうもん(正門)が建てられ、29日には永福寺の扉と仏の後壁へ修理少進しゅりのしょうしん(※)の藤原季長ふじわらのすえながによって描かれた書画が完成。これで内装工事完了というところでしょうか。そして、完成記念式典(供養)を来月12月に開催することを決定したのが11月2日11月13日に池に置いた奇石の配置が頼朝さん、気に入らないということでまた静玄と話し合って配置換え。畠山君と佐貫君らがまた頑張って100人力の力技を見せ、20日には完成した永福寺を政子が初参拝。そして、完成記念式典の導師としてお招きした三井寺の法務ほうむ(※)大僧正だいそうじょう(※)公顕こうけんさんが予定より早く到着したということで、予定前倒しで11月25日に完成記念式典(供養)を行ったとなっています。

※修理少進・・・皇居などの造営を行う職掌である修理職しゅりしきの三等官(じょう)にあたります。
※法務・・・仏教界または諸大寺の庶務を管領する僧の役職です。
※大僧正・・・僧官(僧綱)の最高位です。

ただ、この時、中心にある本堂(二階堂)の南隣にある阿弥陀堂あみだどうや北隣にある薬師堂やくしどうは造営されていなく、引き続き工事が行われて、阿弥陀堂は建久4年(1193年)11月27日に、薬師堂は建久5年(1194年)12月26日にそれぞれ完成記念の供養が盛大に行われております。

このようにこの永福寺は北条氏も、三浦氏も、安達氏も、千葉氏も、和田氏も、梶原氏も、小山氏も、宇都宮氏も、畠山氏も鎌倉御家人みんな集まって、自ら工事に携わって汗水垂らして作り上げた寺院だったことがうかがえます。きっと当時の工事現場はさぞ賑やかだったことでしょうね。
(みんなで奥州合戦で討たれた者の鎮魂を願ってということだったのかもしれません)

では、かなり前置き説明が長くなりましたが、写真をずらずらと。

こちらが永福寺の中心的建物・二階堂基壇きだん

〔二階堂・・・三堂の中心の仏堂で、大きさは正面約19.4m、奥行約17.6m、周囲に幅2.4mの裳階もこし(差掛の庇)を付けた本瓦葺であったと考えられます。基壇は全国的に珍しい木製で化粧されており、大きさは正面が約22.5m、奥行が約20.6m、推定の高さは70cmでした。正面と両側面に階段がありました。堂の本尊は釈迦如来と考えられています。〕

そしてこちらが二階堂の南隣にあった阿弥陀堂の基壇。

〔阿弥陀堂・・・二階堂の南側に建つ脇堂であり、正面が16.7m、奥行が約12.7mの本瓦葺で、北側の薬師堂とほぼ同じ大きさの堂です。創建期永福寺の特徴をなす、極めて珍しい木製基壇(正面約19.2m、奥行約15.3m、推定の高さ54㎝)の上に建てられていました。周囲に縁と雨落ち溝、正面には階段が確認されています。〕

そして北隣の薬師堂の基壇。

〔薬師堂・・・二階堂の北側に建つ脇堂であり、正面が16.7m、奥行が約12.7mの本瓦葺で、南側の阿弥陀堂とほぼ同じ大きさの堂です。創建期永福寺の特徴をなす、極めて珍しい木製基壇(正面約19.2m、奥行約15.3m、推定の高さ54㎝)の上に建てられていました。周囲に縁と雨落ち溝、正面には階段が確認されています。〕

そして二階堂と阿弥陀堂の間には南複廊みなみふくろう、二階堂と薬師堂の間には北複廊きたふくろうがありました。写真撮り忘れたので、案内板だけ・・・。

〔南複廊・・・二階堂と阿弥陀堂をつなぐ幅約6.6mの長さ約12.7mの建物で、二棟廊ともよばれます。前面が廊、奥が部屋になっていました。〕

〔北複廊・・・二階堂と薬師堂をつなぐ幅約6.6mの長さ約12.2mの建物で、二棟廊ともよばれます。前面が廊、奥が部屋になっていました。〕

そしてそして~、これら三堂の南端(阿弥陀堂の南)には南翼廊みなみよくろう南中門みなみちゅうもんが、

〔南翼廊・南中門・・・南翼廊は阿弥陀堂の南側より約13.4m、ここで東に折れて東西に約27.7mの規模で発見されました。板敷で東端が池中に延び、その先に釣殿があったと推測されます。南中門は南翼廊の南面中央に開かれた間口約4.8m、奥行約3.6mの格式の高い四脚門しきゃくもんです。〕

三堂の北端(薬師堂の北)には、北翼廊きたよくろう北中門きたちゅうもんがあって、

〔北翼廊・北中門・・・北翼廊は薬師堂の北側より北に約13.7m、ここで東に折れて東西に約37.3mの規模で池に臨む廊下です。板敷で東端を釣殿にあてていたと考えられます。北中門は北翼廊の北面中央に開かれた間口約4.5m、奥行3.7mの格式の高い四脚門しきゃくもんです。〕

それぞれの翼廊の池に突き出した部分には釣殿つりどのがありました。これは北側の釣殿。

〔釣殿・・・池に突き出す両翼廊の先端には釣殿が設けられていたと考えられます。釣殿は邸宅内の遊宴のための建物で、寺院建築に付随するのは大変珍しく、『吾妻鏡』に2代将軍源頼家が酒宴を釣殿で行ったと書かれています。北翼廊の釣殿では礎石や柱が発掘され、建て替えや火災の痕跡が確認されました。〕

あと。こちらは北翼廊のさらに北側に再現されていた鑓水やりみずです。付近の沢から水が引かれ、庭園の池に注いでいたようです。

〔鑓水・・・北翼廊の北側に、谷間の流水を引き込んでつくられていました。発見されたのは素掘りの溝で、長さ約35m、幅は広い所で約3m、狭い所で約1.8m、深さは約20㎝程でした。使われていた多くの景石は抜き取られていました。当時の京都貴族の邸宅内の庭園では、趣を凝らして造られた鑓水が重要な景観となっていました。
※鑓水部分の整備では盛土をした上に新たに庭の景色を再現しています。〕

ということで、改めて永福寺跡の全体風景。

池側からも。

ちょっと画角に入りきれません…ッ!
かつての永福寺も今はワンコたちの良き遊び場所となっております。
元気よく駆けまわっておりました。
(って、そういえば重忠さんたちが力技を披露した奇石はどこに…?笑)


ところで、この永福寺、奥州征伐で討たれた者の鎮魂のため、鎌倉の鬼門を封じるために造営されたというのが一般的な解釈ですが、別の解釈もあり、岡陽一郎先生はこの永福寺は奥州征伐で生まれた「数万の怨霊(モノノケ)」たちの鎌倉進入を食い止める最終防衛地点だったと指摘しています。現代ではそのような霊的なものは軽く見られがちですが、当時は本気でモノノケの存在を信じ切っていて、それらは道を通ってやってくると考えられていたといいます。

永福寺は奥州方面へ通じていたはずの二階堂大路沿いにあり、永福寺と道路を挟んだ反対側の山からは経筒が発掘されて、そこに経塚きょうづかがあったことがわかっています。つまり、永福寺と経塚で二階堂大路を挟み、異界の者たちが侵入する防壁を築いたというのです。

簡単な地図で永福寺の立地を示してみました。

使った地図は国土地理院が所管する1896~1909年までに旧参謀本部陸地測量部、内務省地理調査所が作成したものです。

濃い緑の場所は丘陵・低山部で、薄い緑が平野部です

これを見ると確かに二階堂大路が鎌倉の平地に入る場所に永福寺と経塚があることがわかり、鎌倉への侵入を阻むような立地になっていることがわかります。

言われてみれば、奥州合戦は大した名分もなく行われてしまった感はありますし、いわれもなく討たれてしまった者が「数万の怨霊(モノノケ)」となって鎌倉に仇をなすと当時の人々を怖れさせ、それが永福寺の創建へと繋がったというのもうなづけます。

詳しくは、岡 陽一郎 『大道 鎌倉時代の幹線道路』歴史文化ライブラリー481(吉川弘文館 2019年)の中の「なにかが大道をやってくる」に書いてあるので、興味のある方はぜひどうぞ♪

ってことで、これで今回の鎌倉散策で巡った史跡・旧跡の話は終わりで~す。


あとは余談(笑)

永福寺の薬師堂の木製基壇に腰をかけて、時間をみればもう16:00。

本当は杉本寺までは行きたかったんですが、杉本寺の最終入場受付時刻は16:15。あと15分しかありません。今から急ぎ足で歩けば何とか入れるものの、もうその気力が残っていませんでした。

さすがに歩き疲れて足は完全に棒に。実は荏柄天神社を出る際に、このまま鎌倉駅へ向かって帰ろうか、永福寺に行こうか迷っていたんです。でも、せめて、やっぱり永福寺には行きたい・・・。と思い直して、なんとか永福寺に来ていたのです。

しばらく薬師堂の木製基壇に腰をかけてまったり・・・。

しかし、訪れたのは晩秋の11月半ば、「秋の日は釣瓶落とし」とはよく言ったもので、休んでいるうちにだんだんあたりは薄暗くなってきて、永福寺の公園でくつろいでいた人たちも三々五々帰っていきます。

そろそろ動かなきゃ・・・。

そして、とぼとぼと鎌倉駅目指して歩きはじめました。疲れてるなら、そのまま二階堂大路を南に、金沢街道へ出て、鶴岡八幡宮前から若宮大路をそのまま南下すればいいものを、途中で今回参拝できなかった鶴岡八幡宮の境内をもう一度通っていこうと少し回り道。(今度来たときは必ず参拝させていただきますからね~)

鶴岡八幡宮でももうだいぶ人も減って、みんな鎌倉駅方面へ向かっています。もうこの時点ですっかり日も暮れて、鎌倉の若宮大路はあちこちに灯火が点って、なんかいい雰囲気😌

夜の鎌倉の散歩もいいかもしれないなぁ~。次回は泊まりでもいいかな、でも次に鎌倉へ来られるのはいつかな・・・。なんて様々なことを思いながら、土産物を多く抱えた人々の中に混じって、人より遅い歩みで一人トボトボと若宮大路を南下。途中、自分だってお土産買うもん!!なんて変な意地が働いて、豊島屋の本店で小さな箱の鳩サブレー買ったりなんかして🤭

そして鎌倉駅着。ここからはひたすら電車でわが家へ帰るのです。

電車ではなかなか座れず、足がジンジンものすごく痛んでなかなかの試練でしたが、やっぱ私は根っから鎌倉が好きなんでしょうね。だんだん離れていく鎌倉を名残惜しく感じる気持ちの方が勝っていたように思います。
(家の最寄り駅に停めた車、運転して帰れるかな?という心配もだいぶありましたが・・・。笑)


さぁ、これで今回の鎌倉散策記事終わりです。長いこと私の拙いお話しに付き合っていただき、本当にありがとうございました。

第2次鎌倉散策はいつできるのかな・・・。行けましたらお話しさせていただくと思いますので、その時はまたお付き合いいただければ幸いです。

それでは、今回の散策ルート。

ありがとうございました。

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