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【治承・寿永の乱 vol.49】源義仲の挙兵

市原(信濃国)の戦い

以仁王の乱以降、地方で挙兵した勢力は頼朝や甲斐源氏だけではありませんでした。その中でのちに治承寿永の内乱前半の中心となる人物も挙兵します。信濃国の源義仲よしなかです。

義仲もまた「以仁王もちひとおう令旨りょうじ」を伝達された一人とされています。

吾妻鏡あずまかがみ治承じしょう4年(1180年)9月7日の記事には、木曾冠者きそのかんじゃこと源義仲の軍事行動が記されていますが、これが『吾妻鏡』で義仲が登場する最初の記事になり、義仲はこの時をもって軍事行動を開始したと解釈されてきました。

以下に訳と読み下しを書き出してみます。

七日丙辰ひのえたつ。源氏の木曾冠者義仲は帯刀先生たちはきのせんじょう(※1)義賢よしかた(※2)の次男である。義賢は去る久寿きゅうじゅ2年(1155年)8月、武蔵国大倉館において鎌倉の悪源太義平あくげんたよしひら(※3)のために討ち滅ぼされた。時に義仲は三歳の赤ん坊であった。乳母夫である中三(仲三)権守ごんのかみ兼遠かねとお中原兼遠なかはらのかねとお)は義仲を抱いて信濃国木曾に逃れ、これを養育した。義仲は成人した今、生まれ持った武略で平家を征伐し家を再興する考えを持った。
そして、頼朝が石橋山ですでに合戦に及んだことを聞き、たちまち頼朝に加勢し、普段考えていたことを行おうとした。
そんな折り、平家に味方する笠原頼直かさはらよりなおはこの日軍勢を催し、木曾を襲おうとした。木曾に味方する村山七郎義直よしなお、ならびに栗田寺別当の大法師・範覚はんかく(※4)らはこれを聞き、信濃国市原で対峙、合戦となった。
合戦の途中で日が暮れた。しかし、義直は矢種が尽きて困窮し、雌伏することを余儀なくされたため、飛脚を木曾へ派遣して状況を伝えた。そこで木曾は大軍を率い、まるで競うように到着。笠原頼直は木曾の威勢を怖れて逃亡し、じょう四郎長茂ながもちの軍に加わるため越後国へ赴いたという。

七日丙辰。源氏木曾冠者義仲主は、帯刀先生義賢二男なり。義賢、んぬる久寿二年八月、武蔵国大倉館に於いて鎌倉悪源太義平主のために討ち亡ぼさる。時に義仲三歳の嬰児えいじたる「なり」。乳母夫中三権守兼遠これを懐き、信濃国木曾に遁る。これを養育せしめ、成人の今、武略性をけ、平氏を征し家を興すべきの由存念あり。しかして前武衛さきのぶえ石橋にいてすでに合戦を初めらるのよし、遠聞に達す。たちまち相加はり素意をあらはさんと欲す。ここに平家方人「小」笠原平五頼直は、今日軍士を相具し、木曾を襲ふをす。木曾の方人かたうど村山七郎義直、ならびに栗田寺別当大法師範覚等この事を聞く。当国市原に相逢ひ、勝負を決す。両方の合戦半ば、日すでに暮れぬ。しかれども義直箭に窮しすこぶる雌伏す。飛脚を木曾の陣に遣はし、事の由を告ぐ。仍つて木曾大軍を率い「来たりて」、競ひ到るの処、頼直その威勢を怖じて逃亡す。城四郎長茂に加はらんが為越後国に赴くと云々。

『吾妻鏡』治承四年九月七日条

この「市原の戦い」と呼ばれる戦いは『平家物語』(延慶本・長門本・盛衰記)には見えず『吾妻鏡』だけに記されています。

そのため直接関係ないはずの頼朝に寄せた書き方をしていて、なんで戦いが起こったのかや本当に9月上旬に行われた戦いだったのかなど詳しい事はわかりません。
(戦いの行われた時期については改めて後でお話ししますね)

また、この市原の戦いが行われた場所は現在長野県内に“市原”という地名がなく、どこで起こった戦いなのかもわかっていません(※5)。

ただ、この市原の戦いに登場する村山七郎義直は水内郡みのちぐん村山(今の長野県長野市村山)・高井郡たかいぐん村山(長野県須坂市村山)を本拠とし、栗田寺別当の範覚は水内郡栗田(今の長野市栗田)、笠原頼直は高井郡笠原牧(長野県中野市笠原)を本拠としていたと思われることから、この市原の戦いは北信濃(長野県北部)で行われたのだろうと推測はできます。

しかし、ここでいくつかの疑問点が出てきます。木曾にいたと思われる義仲がすぐに北信濃の村山勢に加勢できるものなのでしょうか?また、『吾妻鏡』が記すように治承4年9月の段階で“大軍”を率いるほどの勢力をすでに持っていたのでしょうか?

そこでもう少しこの辺を考えてみるべく、義仲の挙兵に関連した話をいくつか挙げてみようと思います。


市原の戦いは義仲の初戦ではなかった?

『延慶本平家物語』の「木曾を滅すべきの由法皇御結構すること(木曾可滅之由法皇御結構事)」(第四-二十三)の中に義仲がこれまでの戦を回想して話す場面があり、小見おみ会田あいだの戦いを最初に挙げています。

この小見・会田の戦いが行われた場所は、小見が現在の長野県東筑摩郡つかまぐん麻績おみ村付近、会田が松本市会田付近に比定されていて、長野盆地(善光寺平ぜんこうじだいら)の南、松本盆地より北、上田盆地よりは西に位置しています。

これを地理的に見れば、木曾で兵を挙げた義仲勢が信濃国府を制圧しながら北上、小見(麻績)・会田付近で敵対勢力と会戦したのち、さらに北上して平家家人の笠原頼直と戦ったという道筋を思い浮かべることができて、小見・会田の戦いが市原の戦いより先に行われたものと見ることができます。

しかし、この小見・会田の戦いは義仲が誰と戦ったのか、どういう経緯で戦うことになったのか、また「市原の戦い」より前に行われた戦いだったのか、さらには「市原の戦い」との関連も明らかではないため、その通りの道筋だったのかは断定できません。(色々わからないことだらけ。。。)

ただ、小見には麻績御厨おみのみくりや、市原を市村の誤記とするなら市村郷いちむらごうがあって、この2つの場所は保元ほうげんの乱で崇徳院すとくいん方であった平正弘まさひろという人物の旧所領であり、のちに横田河原で義仲に敵対することになる富部家俊とべいえとしは正弘の直系の孫と言われています(『源平盛衰記』)ので、その辺を考えると「市原の戦い」と「小見・会田の戦い」の2つの戦いが無関係にそれぞれ起こった戦いというわけでもなさそうです。


2つある義仲が挙兵した場所

実は源義仲が挙兵したとされる地域が長野県内に2つあります。

一つは南信濃にある木曽郡木曽町付近に、もう一つは東信濃にある東御市とうみし本海野もとうんの及び上田市丸子(旧・小県郡ちいさがたぐん丸子町まるこまち付近一帯になります。
(前掲地図参照してくださいね)

木曽町には『延慶本平家物語』で“(中原兼遠が義仲を)木曾の山下と云ふ所で育てけり”とあるように、その「山下」の名残と思われる山下天神(手習天神)があり(※6)、養父・中原兼遠の屋敷跡をはじめ、旗上八幡宮(※7)など義仲にちなんだ旧跡・史跡が密集しています。

とりわけ木曽町日義ひよし地区には伊那いな盆地(※8)へ抜ける道や飛騨国へ通じる道といった要路があって、交通の要衝でした。さらに、この付近には縄文の古代から人が住んでいたこともわかっており、当時この付近にあったと思われる大吉祖庄おおぎそのしょうの中心地であったと推測されており、古くからこの地域の要地だったことがうかがえます。


そして、一方の東御市本海野には『源平盛衰記』などで義仲が軍勢を集結させたと伝わる白鳥河原(千曲川の河畔)があり、付近一帯は平安末期、東信濃の有力氏族であった滋野しげの氏族の一つ、海野氏うんのしが本拠を構える海野郷がありました。

また上田市丸子地区には義仲が拠ったとされる依田よだ城や義仲の館跡をはじめ、ここも木曽町と同様、義仲にちなんだ旧跡が密集しており、義仲挙兵の地とされているようです。

ちなみに、本海野の白鳥河原の至近距離には江戸時代北国ほっこく街道(善光寺街道)の宿場町として賑わった海野宿うんのしゅくがあったことからもわかるように、この地もまた上野国から東信濃、北信濃、越後国へと続く主要道が通り、水路として越後国方面へ抜けることができる千曲川が流れるなど水陸両面において交通の便が良い所でした。

なお、この東信濃と義仲との関わりについて、『延慶本平家物語』にこのような話があります。

場面は、義仲が成長するに従って平家を討ちたいと思うようになり、やがて謀反の志ありと平家に知られるようになってしまった為、養父の中原兼遠は平家に都へ呼び出され、義仲を捕えて差し出すように起請文を書くことで約束させられたところです。

兼遠は起請文を書きながら、長年の義仲を養育してきたことが空しくなるのを嘆いて、自分の命が失われるのも顧みずに、義仲が世を取る(天下を取る)ための謀略のみを明けても暮れても思案していた。
その後は世間の聞こえを恐れて、信濃国の大名(有力者)である根井小弥太ねのいこやたこと滋野行親しげののゆきちかという者に義仲を預けた。行親は義仲の身柄を引き取って、もてなしては大切に扱っているうちに、信濃国中に示すように「木曾御曹司」と呼んで敬った。

兼雅(兼遠)起請文をば書きながら、年来としごろの養育空しくならむ事を歎きて、己が命の失せむ事をば顧みず、木曾が世取らむずる謀をのみぞ、明けてもくれても思ひける。
その後は世の聞こへを怖れて、当国の大名、根井小矢太滋野幸親と云ふ者に義仲を授く。幸親これを請け取りて、もてなしかしづきけるほどに、国中に奉りて、「木曾御曹司」とぞ云ひける。

『延慶本平家物語』第三本「木曾義仲成長する事」より
(適宜送り仮名を補い、仮名を漢字に変換しています )

この話に登場する滋野行親(根井行親ねのいゆきちか)という人物は当時東信濃(佐久さく地方)で勢力を広げていた滋野氏族の有力者の一人でした。

もしこの話が事実であるなら、義仲は兼遠やその息子(今井兼平 いまいかねひら樋口兼光ひぐちかねみつ)たちの支援ばかりでなく、東信濃の滋野一族の支援も挙兵当初からあったことがうかがえます。つまり、義仲は滋野一族のもと、東信濃で挙兵したと考えることもできるのです。

そこで近年では、義仲の木曾での挙兵はごく小規模なもので、本格的挙兵は東信濃だったのであり、義仲は東信濃を拠点に小見(麻績)・会田や市原(市村)でそれぞれ戦った、または市原(市村)へ向かう途中に小見・会田で戦いがあったとする見方が提示されています(※9)。


義仲挙兵の時期について

先にお話ししたように、『吾妻鏡』では「市原の戦い」が治承4年(1180年)9月7日に行われたとされ、これが義仲挙兵の時と認識されていますが、9月上旬に義仲が軍事行動を起こしたことについて佐々木紀一先生は異論を唱えておられます。

佐々木先生は『吾妻鏡』の養和ようわ1年(治承《じしょう》5年・1181年)5月16日にある記事や『尊卑分脉そんぴぶんみゃく』にある村山義直の脇書から、『吾妻鏡』治承4年9月7日条は村山氏の勲功伝承に基づく記事と受け取れるとされ、義仲挙兵を9月上旬とするのは無理であろうと述べられています。

ここでもう少し具体的に佐々木先生の主張をお話しするために、まずその根拠となる『吾妻鏡』養和1年(治承5年・1181年)5月16日の記事の訳と読み下しを書き出してみます。

16日辛卯かのとう。村山七郎こと源頼直が支配する所領、今になって相違することないようお命じになった。その文書の書き様は、「村山・米用(持)の両所をもとのように村山殿の御支配の地となせ」というものであったという。これは武衛ぶえ(頼朝)が安否不明の時、ねんごろに志をめぐらし、城四郎(長茂)と戦った功績をもって、道理に従いお許しになられたものだという。

十六日辛卯。村山七郎源頼直本知行ちぎょうの所、今更に相違あるべからざるの由仰せらる。その書き様、村山、米用(米持)、くだんの所本の如く村山殿の御沙汰さたとなすべしと云々。これ武衛安否いまだ定まらずの時、ねんごろに志を運び、城四郎等に戦するの功を以て、事に於て優恕ゆうじょせらると云々。

『吾妻鏡』養和元年五月十六日条より

佐々木先生はこの記事に登場する「村山七郎源頼直」を『吾妻鏡』にある「村山義直」と同一人物としてみて良いとした上で、この記事にある“武衛(頼朝)が安否不明の時”というのは、頼朝が石橋山の敗戦後、房総半島を渡り上総介(上総広常)の大軍を従えた頃まで(治承4年8月末~9月中旬)を指しているとして、その時期、信濃国の者が頼朝に呼応して越後の城四郎(長茂)らと戦ったことは他史料で確認できないために認めがたく、養和1年(治承5年)5月の段階で頼朝が北信濃の義直に所領を安堵しているのも問題ではないかとしています。

つまり、村山氏は頼朝が石橋山で敗れて安否不明な時期(治承4年8月末~9月中旬)からすでに頼朝と通じていて、頼朝方として平家方の城四郎(長茂)と戦ったから翌年頼朝から所領安堵(所領の安全保障)されたんだという顕彰記事として『吾妻鏡』養和1年5月16日の記事があるけれども、そもそもなぜ村山義直が城四郎(長茂)らと戦うことになったのかを示すために、頼朝安否不明の時期にあたる『吾妻鏡』治承4年9月7日の記事でその伏線を張ったと考えられるというわけです(※10)。

また、他方『尊卑分脉』にある村山義直のところを見てみると、
「石橋山合戦の時より幡文末濃すそご一文字(※11)」
という脇書があるのですが、この末濃に染めた旗の印となった「一文字」というのは『太平記』に見られる久下氏の紋の由来(※12)と同様、一番の参陣を意味していると佐々木先生は指摘されています。

北信濃の村山義直が相模国での石橋山の戦いに参陣していた、しかも一番になんて考えにくいですよね…。つまり、ここでも村山義直が早い時期から頼朝方として励んでいた、それも「石橋山の戦い」に真っ先に参陣してたんだよ!という村山氏の嘘アピールが『尊卑分脉』に反映されたものだったと考えることができるのです。

ということで、『吾妻鏡』の養和1年5月16日、治承4年9月7日の記事と『尊卑分脉』にある村山義直の脇書は村山氏の勲功伝承に基づくもので信用できないから、治承4年9月7日に義仲が挙兵して市原で戦ったこと自体に疑問を持たざるを得ないということになってしまうということなんです。


では、肝心の市原の戦いはいつ行われたのかということになるんですが、義仲や村山義直らが城長茂らと戦ったのは、治承5年(1181年/7月に養和へ改元)6月の横田河原の戦いと思われるので(※13)、その横田河原の戦いの前哨戦になったと思われる市原の戦いがあったのは、『吾妻鏡』のいう9月上旬ではなく、もう少し後か、場合によっては翌治承5年(1181年/養和1年)に入ってからのことになるかもしれません。そうであれば、この時の義仲は信濃国だけではなく、上野国の武士も味方につけていると考えられるので、「大軍」と言えるかどうかはわからないもののそれなりの戦力を持っていたと考えることもできます。

ただ、『吾妻鏡』は治承4年(1180年)10月13日に義仲が上野国多胡庄たごのしょうに入り、同年9月30日に下野国の足利俊綱あしかがとしつなが上野国府の民家を焼き払った事件に対応する形で、上野国の者に安心するよう指図したことを伝えており(他史料では確認できません)、また、『玉葉ぎょくよう』の治承4年12月12日条からは越後のじょう太郎助永すけなが(資永)が信濃国に攻め入ろうとしたが、雪深く人馬が通行できないことから中止したことがうかがわれ、さらにこの『玉葉』の記事に関連する形で、城四郎(※14)が治承4年(1180年)信濃へ攻め入るために兵糧米を徴収したとする文書(「越後白河庄作田さくでん注文案」〔『九条家文書』※15)があることから、治承4年(1180年)中に信濃国で反乱勢力が活動し始めてその対応に越後の城氏が準備をしていたことが考えられ、その反乱勢力に義仲たちが含まれていたかはわからないものの、義仲も治承4年中には挙兵し、活動していた可能性は大いに考えられます。

そこで佐々木紀一先生も
“(義仲の)挙兵は今の所、治承四年十月以降とせざるを得ないだらう”
とされています。


註)
※1...皇太子(東宮・春宮)の家政機関である春宮坊(東宮坊)の舎人監(しゃじん-かん、とねり-の-つかさ)に所属する東宮舎人から選ばれた武器を帯びて警護にあたる下級役人。皇太子の警護役。
※2...源義賢。源為義の二男、源義朝の異母弟。
※3...源義平。源義朝の庶長子、源頼朝の異母兄。
※4...『尊卑分脉』では寛覚と表記される。河内源氏頼信流村上氏の一族とされます。
※5...『長野市誌』や『長野県史』では、長野市若里にある市村神社周辺にあった市村郷付近と推測しています。
※6...この神社は木曽町の福島地区にあり、義仲が手習いした神社と伝わります。
※7...義仲の居館跡、義仲が元服した地と伝わります。
※8...伊那谷とも。木曽地域からだと木曽山脈(中央アルプス)を挟んだ東隣に位置し、主要幹線であった東山道が通っていました。
※9...菱沼一憲『中世地域社会と将軍権力』 p.51~55 〔汲古書院、2011年〕、長村祥知「木曾義仲―反乱軍としての成長と官軍への転換」(野口実編『治承~文治の内乱と鎌倉幕府の成立』中世の人物 京・鎌倉の時代編 第二巻 〔清文堂出版 2014年〕所収)、『長野県史 』〔通史編 第2巻 中世1〕(1986年)など
※10...『吾妻鏡』にある市原の戦いは村山義直や栗田寛覚が義仲の救援を得て、笠原頼直に勝利した戦いですが、その義仲は頼朝に志を寄せて兵を挙げたと記しているので、大きく見れば市原の戦いも頼朝与党による戦いと見ることができるようになってます。
※11...幡文は軍旗の紋、末濃(すそご)は旗の下部になるに従って色がグラデーションで濃くなってるものです。
※12...『太平記』巻第九「高氏篠村八幡しのむらはちまんに御願書の事」の中に、丹波国の住人・久下くげ弥三郎時重の旗紋や笠印かさじるしにみんな「一番」と書いてある理由を足利高氏(尊氏)が側近の髙師直こうのもろなおに尋ねた場面があり、師直は
「これは由緒ある紋にて候ふ。これ(久下時重)が先祖、武蔵国の住人久下次郎重光(小山朝政の弟もしくは結城朝光の子)、頼朝大将殿、土肥の杉山にて御旌みはたを挙げさせ給ひし時、一番に馳せ参じて候ひけるを、頼朝御感あつて、『もし我天下を持たば、一番に恩賞を与ふべし』と仰せられて、一番といふ文字を書いて給ひけるを、やがてその家の紋となつて候ふなり」
と答えたという話があります。
※13...横田河原の戦いが行われた日付について『吾妻鏡』は寿永1年(1182年/治承6年)10月9日としていますが、『玉葉』や『延慶本平家物語』『源平盛衰記』の記述により、養和1年(1181年/治承5年)6月のこととしています。ちなみに、『長門本平家物語』は養和1年(1181年/治承5年)2月、新 日本古典文学大系44〔岩波書店〕の『平家物語』(底本は高野本)では寿永1年(1182年/治承6年)9月に起こったことになっています。
※14...治承4年時点で、城四郎(長茂)の兄である城太郎(資永)が存命で、城氏の家督だったので、ここは城太郎が正しいかもです。
※15...『鎌倉遺文』文書番号八〇〇一(古文書編 第十一巻 p.164)

(参考)
佐々木紀一「木曾義仲の挙兵と北陸経略について」(『山形県立米沢女子短期大学紀要 第五十一号 〔2015年12月〕 所収)
菱沼一憲『中世地域社会と将軍権力』汲古書院 2011年
長村祥知「木曾義仲―反乱軍としての成長と官軍への転換」(野口実編『治承~文治の内乱と鎌倉幕府の成立』中世の人物 京・鎌倉の時代編 第二巻 〔清文堂出版 2014年〕所収)
長野県史刊行会『長野県史』〔通史編 第2巻 中世1〕1986年
関幸彦・野口実編『吾妻鏡必携』第2刷 吉川弘文館 2009年
川合康『源平の内乱と公武政権』日本中世の歴史3 吉川弘文館 2009年
高橋一樹『東国武士団と鎌倉幕府』動乱の東国史2 第2刷 吉川弘文館 2016年
上杉和彦『源平の争乱』戦争の日本史6 第3刷 吉川弘文館 2012年

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