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~史話~ 治承・寿永の乱

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治承・寿永の乱(源平の争乱)を史料や諸先生の御著書・御高論を参考にお話ししたものです。
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記事一覧

【治承~文治の内乱 vol.53】熊野騒乱(中)

『平家物語』諸本には、湛増と湛覚とが争った騒乱(前回 vol.52)より前、つまり治承4年4月下…

およまる
8日前
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【治承~文治の内乱 vol.52】熊野騒乱(前)

前回の冒頭で治承~文治の内乱は単純に平家と源家との戦いではなく、様々な勢力が反乱を起こし…

およまる
2週間前
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【治承・寿永の乱 vol.51】菊池隆直の乱(前編)

列島各地で起こった反乱 治承・寿永の乱で反乱を起こした勢力はなにも頼朝や義仲、甲斐源氏と…

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9か月前
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【治承・寿永の乱 vol.50】源義仲の上野入国

源義仲の上野国入り 治承4年(1180年)10月13日。 源義仲は信濃国から上野国に入国しました。…

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1年前
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【治承・寿永の乱 vol.49】源義仲の挙兵

市原(信濃国)の戦い 以仁王の乱以降、地方で挙兵した勢力は頼朝や甲斐源氏だけではありませ…

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1年前
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【治承・寿永の乱 vol.48】頼朝が勢力を急拡大できたのはなぜ?

はじめに 治承4年(1180年)8月に伊豆で挙兵し、わずか4ヶ月足らずで南関東を勢力下に置いて…

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1年前
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【治承・寿永の乱 vol.47】新田義重の参向

新田義重、頼朝のもとへ 治承4年(1180年)12月21日。この日、上野国(今のほぼ群馬県)の新田義重が頼朝のもとに参向しました。 以下はその時のことを記した『吾妻鏡』の記事(『吾妻鏡』治承4年12月22日条〔部分〕)です。 22日庚子。新田義重は頼朝の召還に応じて参上した。しかし、むやみやたらと鎌倉に入ってはいけないとお達しがあったため、山内(今の北鎌倉、鎌倉市山ノ内)のあたりに逗留した。 これは義重が軍勢を招き集めて上野国寺尾館に引き籠ったとの聞こえがあったためで、

【治承・寿永の乱 vol.46】鎌倉へ馳せ参じてきた人たち

鎌倉の頼朝のもとへは坂東だけでなく他の地方の武士も馳せ参じてきましたが、今回はそんな方た…

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1年前
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【治承・寿永の乱 vol.45】推して鎌倉の主となす

和田義盛が侍所の別当に就任 治承4年(1180年)11月17日(以降の日付はすべて『吾妻鏡』に拠…

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1年前
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【治承・寿永の乱 vol.44】武蔵国は鎌倉の生命線?

頼朝、葛西清重の館へ向かう 治承4年(1180年)11月10日(『吾妻鏡』)。 この日、小栗御厨…

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1年前
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【治承・寿永の乱 vol.43】 頼朝、下野国をうかがう

苦言を呈した男 前回お話しした佐竹攻めの論功行賞の一方で、佐竹方の残党10人ほどが頼朝の前…

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1年前
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【治承・寿永の乱 vol.42】 金砂城攻防戦

金砂城攻防戦 治承4年(1180年)11月4日。 頼朝は常陸国府(※1)に到着、いよいよ佐竹氏攻略…

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1年前
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【治承・寿永の乱 vol.41】 頼朝勢、常陸国へ出陣する

頼朝、松田御亭にて地固め 治承4年(1180年)10月25日(『吾妻鏡』)。 相模国府を発った頼朝…

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1年前
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【治承・寿永の乱 vol.40】 敗将たちの処罰

論功行賞 治承4年(1180年)10月23日(『吾妻鏡』)、駿河国から引き上げた鎌倉源氏軍(頼朝勢)は相模国府に到着。そこでこれまで付き従ってきた武士たちの論功行賞(それぞれ功績の大小を論じて、それに応じた賞を与えること)が行われました。 しかし、頼朝方は挙兵以来新たに得た土地がほとんどなかったため、武士たちに新たな土地を与える(新恩給与)というよりは、武士たちが従来管理してきた土地に対する保障(本領安堵)が中心になりました。 これまで武士たちは管理してきた土地の保障を