見出し画像

【治承~文治の内乱 vol.41】 頼朝勢、常陸国へ出陣する

頼朝、松田御亭にて地固め

治承じしょう4年(1180年)10月25日(『吾妻鏡』)。
相模国府を発った頼朝は相模国松田郷にある松田御亭に入りました。
この松田御亭は頼朝の異母兄である源朝長みなもとのともなが(※1)の遺跡で、朝長の母親の実家である波多野氏のもとで養育されていた時期に居住していた邸宅でした。

頼朝はこれに先立つこと18日、地元の武士である中村宗平なかむらむねひらにこの松田御亭の修繕を命じておいたのです。

さて、この松田御亭。頼朝がなぜ寄ったのか、単に在りし日の兄を偲ぶために寄ったものではなく、しっかりとした目的があって寄ったようなのです。

この松田御亭について、多賀宗隼先生と野口実先生が面白い見解を示しておられます。

この松田御亭は、平清盛が治承3年(1179年)1月に富士山見物・鹿島参詣と称して東国視察を計画した際に、その宿館として普請を命じられた大庭景親おおばかげちかが松田郷の領主で親戚(※2)でもあった波多野義常はたのよしつねの協力もおそらく得て造営したものであり、清盛はここで坂東の武士はもとより、駿河・伊豆・甲斐・信濃の武士をも招集して、主従関係を固めることを企図したのではないかとするのです(※3)(※4)。

『吾妻鏡』にも松田御亭は25間(※5)の侍(侍所さむらいどころ)を備えた宿館であったと記しており、朝長が居住するには大きすぎる規模であったことがわかります。

この侍所というのは「警護の武士の詰所」です。そのため通常貴族の邸宅に備えられている侍所には主人の座席はなく、主人がそこへ現れることもありませんでした。しかし、武家の棟梁などは配下の武士(家人)たちと情誼的な関係を持つ必要があったことから、主人は侍所に赴き、家人と同じ床面に座し、そこで饗宴などを催すことによって直接その関係を確認したといいます(※6)。したがって、清盛はこの時大勢の東国の武士たちを招集して、それを行おうとしていたため、大きな侍所が必要だったのです。

つまり、朝長が居住した松田御亭は清盛が造営させた松田御亭と同じものである可能性が高く、頼朝も清盛と同じように、富士川の戦いの不戦勝でひと段落したのを機に、大所帯となった自陣営の武士たちと改めて主従関係を固める意図があって、松田御亭を訪れたと考えることができるのです。


頼朝勢、常陸国へ出陣

さて、頼朝は鎌倉に着くなり、ほとんど間をおかずに常陸国へ出陣しました。時に治承4年(1180年)10月27日のことでした(『吾妻鏡』)。

実はこの日は御衰日ごすいにち(※7)という凶日で、御家人たちはこぞってこの日の出陣を控えるように進言したのですが、頼朝は、

「以仁王の令旨が届いたのは4月27日、結果私は坂東の地を掌握することができた。日にちを気にする必要はない。討伐するような場合は27日はむしろ吉日である」

と言って、予定通り鎌倉を発ちました。

こうして西方の富士川からそのまま東方の常陸国へ返す刀で進軍した頼朝勢ですが、頼朝の衰日を無視してまで強行する様からは何か急いでいる感じがします。実際に急いでいたかどうかはわかりませんが、それをうかがわせるような話が『源平闘諍録(※8)』にあります。

それによれば、佐竹忠義さたけただよし下妻広幹しもづまひろもと、その弟・東条貞幹とうじょうさだもと鹿島成幹かしまなりもと小栗重成おぐりしげなり豊田頼幹とよだよりもとらを率いて、総勢20000騎の軍勢で常陸国から隣国・下野国に向かい、深い結びつきを持つ下野国足利庄の足利俊綱あしかがとしつなに頼朝追討の協力を呼びかけました。

「兵衛佐はすでに平家を敵とし、坂東の五カ国を従えている。とは言え、平家の清盛入道は位人臣を極めている。誠にこれは天が(清盛に)与えた果報というものである。それなのに頼朝は流人の身でありながら平家転覆の猛悪の謀を行うこと、まるで蟷螂(カマキリ)の斧で龍車(天子の車)に立ち向かうようなもの、小さな貝殻で海の水を掬うようなものだ。俊綱と忠義が協力して頼朝を討てば、平家から恩賞を受けることは疑いない」

しかし、足利俊綱は忠義の誘いを断わります。

「頼朝と忠義は先祖を同じくしている(河内源氏)。どうして同じ根を絶ってその葉を枯らすことができようか。全く道理に合わない事を言う人だ。まして他人ならばどうであろう。いかにもあの人は毒害の心を持っているようだ。とても協力できる相手ではない」

俊綱の同意を得ることができなかった忠義は常陸へと兵を退き、結局頼朝追討を諦めたというのです。

この話は頼朝が佐竹氏を攻撃したあとの話(※9)の前に入っているので、そのまま話の順番どおりに事態が進行していたとすれば、佐竹氏の方も頼朝を攻撃しようと動き始めていたということになります。つまり、頼朝にとって佐竹氏討伐は緊急の事案、すぐに手を打たなければならない事態だったかもしれないのです。

この時期、頼朝は南坂東を掌握しているとはいえ、まだ北坂東地域に不確定要素が多く残っている状況であり、代々平家と繋がりを持つ佐竹氏と、旗色を鮮明にしていない藤姓足利氏や常陸平氏の諸氏が手を組む可能性は大いにあったと考えられ、『源平闘諍録』の話はそのような情勢を反映したものであると言えるのではないでしょうか。

ともあれ、頼朝に同調しない佐竹氏の征伐は、後顧の憂いを少なくするためにも、早い段階で手段を講じる必要があったことは十分考えられます。

この話が収録される『源平闘諍録』は鎌倉時代末期~南北町時代初期、14世紀の初めごろに作られた『平家物語』の異本とされ、その内容は散逸著しく欠巻が多いものの、現存する部分では坂東武士とりわけ千葉氏を中心に書かれ、“東国生まれの平家物語”として他の『平家物語』にはない記述もあることから史料としても注目されています。

しかし、『源平闘諍録』はあくまでも後世に編まれた物語であって、その記述の信憑性に関して注意が必要です。

例えば、ここで語られる佐竹忠義の軍の構成は、忠義以外みんな常陸平氏の面々だが、この当時常陸平氏の諸氏はおおむね中立、静観を保っていたとされ、小栗重成や鹿島成幹は当時すでに頼朝寄りの勢力とされている(※10)ため、そんな彼らが反頼朝の軍に参加していたかどうかは不明です。こうした点を踏まえると、『源平闘諍録』の記述を鵜呑みにすることはできません。

ということで、今回はここまでです。
次回は佐竹秀義ひでよしらの佐竹勢が籠る金砂かなさ城を頼朝勢が攻撃します。

最後までお読みいただきありがとうございました。

註)
※1・・・朝長は平治の乱(1159年)の際、父・義朝とともに東国へ落ち延びようとしましたが、その途中で比叡山僧兵の攻撃を受けて瀕死の重傷を負い、美濃国青墓宿で自害しました。
※2・・・波多野義常の妻が大庭景親の姉妹であったと思われます(『吾妻鏡』治承4年11月20日条から推察)。
※3・・・野口実 「平清盛と東国武士ー富士・鹿島社参詣計画を中心にー」(『立命館文学 第624号』 立命館大学 2012年 所収) 及び 多賀宗隼「平清盛と東国.-富士山と日本人」(日本歴史学会編 『日本歴史』513号 吉川弘文館 1991年2月 所収)
※4・・・清盛が富士山見物・鹿島詣を計画し、松田御亭が造営されたことは『山槐記』(さんかいき:中山忠親の日記)の治承3年〔1179年〕1月12日条や『延慶本平家物語』の第三末「兵衛佐与木曾不和ニ成事」、『長門本平家物語』巻第十三「頼朝義仲中悪事」、『源平盛衰記』巻第二十八「頼朝義仲中悪事」などからうかがうことができます。
※5・・・25間という数字は平安時代から南北朝時代ごろまで使用された建物の大きさを表す間面記法けんめんきほうというもので表された数字で、母屋モヤの柱間の数が25あったという意味になります。イメージとしては三十三間堂をやや小さくしたような感じです。
※6・・・川本重雄 「日本住宅史における鎌倉幕府の位置付け」 ( 『日本建築学会大会学術講演梗概集F』 日本建築学会 1986年 所収) 及び 吉田歓「武士の館の構造―侍所に ついて―」( 『平泉文化研究年報』第三号 岩手県教育委員会、2001年 所収)
※7・・・衰日とは陰陽道において、その人の生まれ年や年齢(数え年)から計算して導かれたもので、その日はその人にとって縁起が悪いとされました。
※8・・・『源平闘諍録』巻五の「佐竹太郎忠義、梶原に生け取らるる事」。この話では上総広常ではなく、梶原景時がわずかな共を連れて佐竹忠義の館にいき、話している途中、突然忠義をさらって頼朝の前に引き据え、弁明させたものの、結局頼朝は景時に忠義を大屋の橋で切らせた話になっています。
※9・・・『源平闘諍録』では佐竹攻めに関する具体的な記述はなく(脱漏してしまった?)、次節は佐竹攻めの余勢をかって奥州へと攻めこもうとする頼朝とそれを止める上総広常が仲違いしたという「上総介、頼朝と中違ふ事」になります。
※10・・・高橋修「総論 常陸平氏成立史研究の現状と課題」(高橋修 編『常陸平氏』中世関東武士の研究16 戎光祥出版 2015年 所収)

(参考)
野口実 「平清盛と東国武士ー富士・鹿島社参詣計画を中心にー」(『立命館文学 第624号』所収) 立命館大学 2012年
高橋修 編 『常陸平氏』中世関東武士の研究16 戎光祥出版 2015年
上杉和彦 『戦争の日本史6 源平の争乱』 吉川弘文館 2007年
川合 康 『日本中世の歴史3 源平の内乱と公武政権』 吉川弘文館 2009年
水原 一 考定 『新定 源平盛衰記 第三巻』 新人物往来社 1989年
黒板勝美編 『新訂増補 国史大系 (普及版) 吾妻鏡 第一』 吉川弘文館 1968年
櫻井陽子編 『校訂 延慶本平家物語(六)』 汲古書院 2004年
高山利弘編 『校訂 延慶本平家物語(七)』 汲古書院 2006年
麻原美子・小井土守敏・佐藤智広編 『長門本平家物語 三』 勉誠出版 2005年
福田豊彦・服部幸造 注釈 『源平闘諍録(下)』 講談社 2000年
関幸彦・野口実編 『吾妻鏡必携』 第二刷 吉川弘文館 2009年

この記事が気に入ったらサポートしてみませんか? いただいたサポートは記事の充実に役立たせていただきます。