【治承~文治の内乱 vol.46】鎌倉へ馳せ参じてきた人たち
鎌倉の頼朝のもとへは坂東だけでなく他の地方の武士も馳せ参じてきましたが、今回はそんな方たちのお話しです。
まず1人目は加賀美(加々美)長清(小笠原長清)さん。
彼は前回お話しした頼朝の大倉御所引っ越しの行列で頼朝のすぐ左横に随伴するほど、頼朝の信任を得ていた人物ですが、彼の出自は甲斐源氏です。
この頃甲斐源氏の諸氏はまだ頼朝の傘下に入っているというより対等な関係で軍事同盟を結んでいるような関係にあり、源(木曾)義仲と行動をともにする者がいるなど頼朝勢(鎌倉源氏)とは別の動きをしていました。
そんな中、長清は頼朝のもとに馳せ参じてきたのです。
彼が頼朝のもとに馳せ参じてきたのは治承4年10月19日(『吾妻鏡』)だったとされ、10月19日というと甲斐源氏、頼朝勢(鎌倉源氏)が共闘した富士川の戦い直前のことになります。
『吾妻鏡』には長清が頼朝のもとに馳せ参じてくるまでの経緯も記されておりますので、それに準じてお話しさせていただきますと・・・。
長清は平知盛(清盛の三男)に仕えていましたが、東国の勢に加勢するため、甲斐にいる母親が急病になったと偽って帰国しようとしました。
それに対し、知盛は東国の勢に長清が加わるのを危惧しているという清盛の意向を伝えて、彼の帰国を許しません。しかし、平家の家人・高橋盛綱から早く長清を下国させてあげるべきという書状での助言もあったため、すぐに戻ってくるように条件を付けた上で帰国を許し、長清はようやく帰路につくことができました。
そんな長清は帰り途中で病を得て、美濃国の神地という場所でしばらく静養を余儀なくされ、9月に甲斐国へ帰還。一族の者たちが頼朝のもとへ向かったことを聞いて、急いで頼朝のもとへやってきたといいます。
この『吾妻鏡』の記述がすべて事実であるとは到底思えませんが、なぜ長清は合流した後、親類縁者である甲斐源氏の者たちと行動を供にせず、頼朝のもとに留まって活動していたのでしょうか。
これについて、まず川合康先生がこの頃の甲斐源氏は主に3つの勢力に分かれていたと指摘しており、その3つの勢力とは安田義定をはじめとするグループ、武田信義をはじめその子である一条忠頼を中心とするグループ、そして加賀美遠光をはじめその子・長清や光行に代表されるグループであったとし(※1)、西川広平先生がそれを踏まえて加賀美遠光らのグループは活路を頼朝への接近・従属に求めることで、その勢力の維持・拡大を図ったとの見解を示しておられます(※2)。
ちなみに、小笠原長清の兄に秋山光朝という方がいますが、彼も長清と同様、平知盛に仕えていました。しかし、光朝は長清とともに東国へ下ることはなく、そのまま知盛に仕え続けました。兄弟で動きが違うのは京都での立場が影響していたと思われ、光朝にとっては平家方の人物との関わりが深かったのでしょう。江戸時代の書籍『甲斐国誌(※3)』には光朝が平重盛(清盛の嫡子、治承3年〔1179年〕没)の娘婿だったことを記しています。
続いて2人目。橘公長さんです。
彼の出自は橘姓であることからその流れを汲む人物であると察しがつくものの、系譜が不明で詳しいことはわかりません。当時は京都で活動する人物でした。それが治承4年12月19日(『吾妻鏡』)、子息である公忠・公成(公業とも)を伴って鎌倉へやってきたのです。
『吾妻鏡』によれば、かつて公長は京都の入口に当たる粟田口の辺りで斎藤実盛と片桐小八郎の両名とケンカをしたことがあり、そのケンカが当時彼らが仕えていた源為義(頼朝の祖父)の耳に達して、朝廷に訴えられるのではないかと戦々恐々としていたのですが、為義は怒らずに公長を許し、かえって斎藤・片桐の両名を叱ったということがありました。これに公長は恩誼を感じて、以来源家に志を寄せていたそうです。
そして、富士川の戦いの敗戦などで平家の威勢に翳りがみえたのを覚り、平重衡率いる東国追討使(第二次)に従軍したのを機に、途中でその軍から抜け出し、親類縁者を頼るべく、まずは遠江国に赴き、その後、ある人物に「一所傍輩の好」として頼朝への取り次ぎをお願いして鎌倉にやってきたというのです。
そのある人物とは1人目としてお話しした加賀美長清さんです。実は公長と長清は京都でともに平知盛に仕えていた同僚(一所傍輩)で、在京中は交流があったようなのです。
これを野口実先生は「一所傍輩のネットワーク」というフレーズを使って、この頃の東国武士の人的ネットワークが在地(自分が本拠として住んでいる地域)においてばかりでなく、京都に上って活動している中で作られた人的ネットワークがかなりあったことを物語るとして、これの他にも多数の例を挙げて指摘されています(※4)。
ちなみに、この「一所傍輩のネットワーク」は治承・寿永の乱において、東国の武士が西国で戦うにあたって重要な人脈になったばかりでなく、乱が収束した後にもその当時の武士の様々な人間関係を把握したり、東国の武士が西国や陸奥など今までの自分の所領と離れた場所の地頭職をなぜ務められたのか、または、一見地縁のなさそうな国の守護(守護人)になぜ任じられたのかを理解する時、一つの重要な鍵になりえます。
そして3人目。里見義成さんです。
彼は新田義重の孫で、碓氷郡里見郷(群馬県高崎市中里見町)を名字の地とする武士でした。彼も例によって当時は都にいましたが、東国の繁栄を聞き、早く頼朝のもとに馳せ参じようと治承4年(1180年)12月22日(『吾妻鏡』)、鎌倉へやってきたのです。
頼朝はその志が祖父(義重)とは違うとしてこれを歓迎し、義成をすんなり御家人として認めました。そして、彼のことを大変気に入ったらしく、これ以後義成は頼朝の側近として活躍していきます。
『吾妻鏡』にはこの時義成が頼朝に話した内容が記されており、それが興味深いので、ここに記してみます。
義成が言うことには、
「石橋山の戦いのあと平家はしきりにはかりごとを廻らし、(河内)源氏の一族においては、それをことごとく討滅しようとしておりますので、私は関東へ下って武衛(頼朝)を襲う旨を偽り申し上げたところ、平家の方々は喜んで関東へ下ることを許されましたので、今こうして参向してきました。途中、駿河国の千本松原(静岡県沼津市)で斎藤実盛と瀬下広親の両名に会いましたが、彼らは、『東国の勇士はみんな武衛に従ってしまった。そこで武衛は数万騎を率いて鎌倉にお入りになった。しかし我ら二人は先日平家と交わした約定があるために上洛する』と言っておりました。私はこれを聞き、いよいよ鞭をあげて急いで来た次第です」
ここで登場する斎藤実盛は武蔵国長井庄(埼玉県熊谷市妻沼町付近)の住人で、瀬下(四郎)広親は上野国甘楽郡瀬下郷(群馬県富岡市富岡小字瀬下)の住人で、いずれも坂東の武士ですが、もしこの記述が事実であるなら、このように平家のもとに向かった武士もいたことがわかり、在京中の活動や主従関係によって武士たちはそれぞれ去就を決めていたことをうかがわせます。
また、こうして実盛と広親が一緒に上洛している様子や道中で義成と普通に会話している様子からは所領がそれぞれ離れているにもかかわらず普段から顔なじみだったことをうかがわせ、これは当時の武士の広範囲に展開された地域間のネットワークがあった裏付けになる一方で、京都(都)での活動を通じて得られたネットワークによるものだったとも言えるのではないでしょうか(※5)。
以上、3名の方が鎌倉へ参向してきた時の話をしましたが、この他にも新田義重の子で、義成の伯父にあたる上野国多胡郡山名郷(群馬県高崎市山名町)を名字の地とする山名義範が前回お話しした大倉御所転居の式典(移徙の儀)の行列に加わっていて、すでに頼朝の御家人として名を連ねていたことがうかがえます。
山名義範がなぜ父・新田義重と行動を共にせず、頼朝のもとにいち早く参向していたのか判然としませんが、山名氏は治承・寿永の乱が始まる前から新田本宗家とは違った独自の動きをする家で、山名義範自身は従兄弟にあたる足利義清(矢田義清)の婿と考えられ、義清の弟である足利義兼ともしばしば行動を共にしていることから、義範は源姓足利氏に取り込まれていたと見ることができるという見解があります(※6)。
(ちなみに足利義兼も大倉御所転居の儀式〔移徙の儀〕の行列に加わっています)
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