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生まれて初めて見た映画

 好きな映画を尋ねれば、その人の嗜好や性格がよく分かる。最近見た映画を尋ねれば、その人の最近の気持ちがよく分かる。映画とは不思議なもので人生とは切っても切れない関係にある。世に生み出された映画の数などは計り知れたものではなくそれこそ天文学的数字になるにも関わらず、どうにかしてその作品と出会い、その偶然の出会いから見ることになった映画から何かを感じ、時に奇しくもその映画にたどり着いたことのある人と感想をああでもないこうでもないなどと共有して時にその人と価値観が合致するのか、はたまた全く分かり合うに及ばぬ人間なのかを判断したりするのだ。

 映画を主題にして話をする時、その話がどれほどややこしい内容であれ、話は右へ左へと逸脱し、簡単に終わりどころの見えるものでもない。そこにはいつも何かしらの答えがあり、「その映画を見るに至った経緯」や「あの女優は誰だったか」「この時代にCGはなかったはずなのにどうやって撮影したのか」「この作品の吹き替えもまたまた山寺宏一か」などとその気になれば三日三晩でも語り合うことができる。しかし、この世界の多くの人が答えることができない、もしくは答えが「分からない」になるものもある。もうほとんどの人はお気づきだろう。もしくは今回の私の「更新しました!」などというくだらない呟きに貼り付けられていた画像から、チラリとタイトルを見たのち、ここに来るまで「自分の場合はなんだったか」と頭を巡らせて巡らせて「分からない」と頭を抱えている人もいるだろう。

生まれて初めて見た映画はなんだ?

 つい先日まで私も分からなかった。しかし偶然にも先日見た映画がまさにその生まれて初めて見た映画だったのだ。ひょんな事から、本当に今にも千切れそうな、いやほとんどちぎれていた細い細い記憶の糸を辿って確信した。そこにはとてつもなく胸が苦しくなるような幼少期の思い出が詰まっていた。あまりにもそこに愛があり、懐かしく、私は柄にもなく泣いてしまった。作品が良かったのではなく、生まれて初めて見た映画に再び巡り合えたこととそのおかげで思い出したいくつかのことに泣いてしまったのだ。

 結論から言うと私が生まれて初めて見た映画は「ジュラシック・パークⅢ」だった。人気シリーズの3作品目で言わずと知れた世界の不朽の名作である。調べてみると2001年の映画だったため、私が生まれて初めて映画を見たのは5歳だったときだということがわかった。人生初の映画館はすごく怖かったのを覚えている。薄暗くて甘く香ばしい不思議な匂いがして、自分の目線よりも少し高いところに普段は光っていないポスターが後からライトで照らされながら貼られていた。見たことのない量のチラシが並び、23になった今でも言葉ではうまく表すことができないが黒とオレンジと紫のオーラを感じた。当時は予告とも知らなかったが腹に謎の袋をつけた奇妙な青色の猫型ロボットが映画の中で活躍する映像が大音量で流れていた。音の大きさに頗る驚いたのを鮮明に記憶している。

 なぜだか分からないがこの時私は父親と二人きりだった。当時すごく忙しかった父親とは二人で出掛けた記憶などほとんどないし、父親が休みなら母親もいたはずなのだがこの時はなぜか二人だった。父親はあまり文化的な趣味を持たない人間で、用事があればどこまででも行くがその用事を終えたら脇目も振らず一直線で帰ってくる性格だ。例えば綺麗に富士山が出ているから写真を撮ってくると朝一で出掛けても、富士山の写真を心行くまで撮影したら近くを散歩したり、もう少し先まで足を伸ばしたりもせず、もっと言えば茶の一杯も飲まずに一目散に帰宅するのだ。それが昼前であれ何であれ、用事が終わったら帰る父が5歳の私と二人で出かける時に映画館を選んだのはなぜだったのだろう。私が映画を見たいと言ったのか、父が行きたくて行ったのかは思い出すことができなかった。

 父はヘンテコな青い猫型ロボットの声がけたたましく鳴り響く大画面の下でも私に聞こえるように大きな体を屈めて私の耳元でこう聞いた。
「何が見たい?」
これもかなり鮮明な記憶だからきっと父は見たい映画があってきたわけではなかったのだろうと最近の僕は思った。そして当時の僕は「何があるの?」と口元に手のひらを添えて、ヘンテコな猫型ロボットの隣にいる弱そうな丸メガネの大きな声に負けないような大きな声で聞き返した。それに対して父親はこう言った。

「千と千尋の神隠しっていう映画か、恐竜の映画があるよ 」

5歳の頃の記憶なのにこんなにも鮮明なものかと少し我を疑い千と千尋の神隠しを調べてみると公開年はジュラシックパークと同じ2001年だった。父親の言葉や私の問いかけの表現におそらく多少の違いはあるものの大方正しい記憶なのだろう。「どちらにする?」と聞かれた私は「最初のはどんな映画なの?」と聞いた。すると父は少し間を置いてから
「お父さんとお母さんがいなくなって、その二人をこの女の子が探すお話みたい」とポスターを指差しながら端的に言った。近頃はほとんど何を言っているのか分からない父からは想像もできないほど上手くまとまった説明で、18年越しに感心している。この説明を聞いた幼気な私は、

「この映画を見たら僕のお父さんとお母さんもいなくなってしまうかもしれない。そんなのは絶対に嫌だ。」

と強く強く心の中で何度も思った。本当にこの感情を抱いたのを昨日のことにように覚えている。嘘だと思うかもしれないが、万が一にもこれが御年23歳の私が今まさにでっち上げた作り話だとしたら、私は5歳の心を世界一理解している男として表彰されるべきだ。そして今すぐ幼稚園なり保育園なりの先生になるべく転職活動を始めるだろう。嘘ではなく紛れもなく私はこの時こう思い、父の着ていたフィッシャーマンズベストの腰のあたりの縁をギュッと握りしめ
「恐竜にする」と答えたのだ。

 父はポップコーンを買ってくれた。チケットと父のベストを握りしめ生まれて初めてシアターに入った。階段の隅で番号が書かれたプレートが光っていて驚いた。何番シアターでどの辺に座ったかは覚えていない。きっと誰よりも我先にというタイプの父親はど真ん中の列のど真ん中の席を買ったに違いない。ここからの記憶はほとんどない。どんな感想を覚えたのか、終わった後に父はどんな顔をしていたのか、どうやって帰ったのか、母親になんと話したのか、ポップコーンは全部食べたのか。覚えているのはあまりに大きな音に驚いたことと、その大きな音が怖くて終始毛むくじゃらで太い父親の右腕にしがみついていたことだけ。当時図鑑をすり切れるほど読んだ大好きな恐竜のことも、映画のストーリーも覚えていないのに父親の丸太のような毛むくじゃらの腕だけは覚えているということは1時間34分もの上映中、ずっと映画をそっちのけで父親の腕を鑑賞していたのかもしれない。しかしなんとなくBGMや、俳優のなんとも言えない表情、当時何よりも好きだった恐竜については先日不意にこの映画を見た時にうっすらと既視感を覚えた。そして何より嬉しかったのがこの映画がすごく面白かったことだった。父も満足したに違いない。

 世の中は不平等なことだらけだが「時間」だけは全てのヒト・モノ・コトに平等に訪れる。19年前5歳だった私と当時41歳だった父はありがたいことに現在23歳と59歳になっている。しかし、私が「千と千尋の神隠し」を見てもそれが理由で両親がいなくなったりしないとわかる大人になろうと、毎晩酒ばかり飲んでひっくり返っている年齢になろうと、どれだけ願ったとしても23歳の私が41歳の父と会話をすることは、奇妙な青い猫型ロボットでも現れない限り不可能だ。しかしひょんなことから分かった私にとって生まれて初めて見た映画が、それを僅かながらに可能にした。自粛期間に自宅でジュラシック・パークⅢを見たことで思い出した昔の父の毛むくじゃらな右腕は、たくましく頼り甲斐があって真っ黒に日焼けしていた。

今度実家に帰ったら聞いてみよう。

「親父、俺が生まれて初めて見た映画を知ってるか?」

父は豆鉄砲を食らったような顔で「知らん」と答えるだろう。そうしたら小っ恥ずかしいのは承知だが少しだけ細くなったように見える右腕にしがみつき教えてやるんだ。「恐竜の映画だよ」と。何事かと気味悪がられるだろうが構わない。そして何十年ぶりに二人で映画を見に行くことにしよう。ポップコーンも買ってあげよう。


2020年6月27日
父の日の6日後
自宅にて

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