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親を看る はじめに

 父が亡くなってもう足かけ7年になるけれど、当時の荒れっぷりを覚えている。

 年の暮れに突如としてすい臓がんが発覚し、その内容はステージ4bだった。
 運命としかいいようがないんだけれど、私の弟は臓器専門の外科医であった。そこで発覚後頭が真っ白になっている父を拾い、自分の勤めている病院で手術・治療した。

  私は、父、弟と、献身的に父を支える母をサポートして1年間走り抜き、父を何とか天寿を全うさせた。しかし、家族に主治医がいて、自分の親を大手術し治療するということは、本当に色々なことが起きて大変なんだということを、まざまざと実感した。世間で思われている家族に医師がいるありがたさとは正反対の、過酷さ、全員ヘトヘト、もう限界。ばかりの1年だった。

 父の最初の手術は15時間もかかった。母と私は、朝からの手術だったにもかかわらず、深夜になって日付が変わるまで別室で手術の終わりを待っていた。弟は、15時間に及ぶ手術をしたのち、私と母を呼んで、がんに侵されたでっかい膵臓を手術トレーに乗せて、本当にさわやかな顔をして説明した。息子としてでなく主治医の顔だった。

 膵臓がかなり重くがんに侵されていたこと、それを取り除くのは大変だったことを伝えていた。また、父の首の痛さが、血の塊が頸椎を押していたものであったのをつきとめていたので、整形の先生が手術で直したことも伝えていた。膵臓だけでなくいろいろなことを見据えての手術だった。家族は祈る気持ちで、献身的に父を支えていた。

 普通、ここまで整っていると、気を遣っていい患者になるはずなのであるが、とってもじゃないけれど模範的な患者ではなかった。暴れ狂うゴジラであった。父と向き合い、みんなヘトヘトになっていた。

 母は、父だけでなく、主治医として働く弟も心配だったので、病院に泊まり込みで看病し、結果過労で認知症になった。同じ病院で治療を受け、父のリハビリの先生方に大変心配されていた。

 私はと言えば、突発性難聴で片耳が不完全に聞こえなくなった。自分の生活も親に捧げて、ようやく回るほどだった。
 どれぐらい忙しかったかというと、次の日朝6時からパートの仕事があるのに、ずっと病院で寝泊まりしている母に呼び出され、父の病室で泊りがけの看病。というのもあった。とりあえず、小2と小5の子供たちを子供2人だけを家に置いて病院にかけつけ、子どもたちはそのまま夫に任せて2日間泊まって看病したりしていた。親の看病が始まる前は、あんなに子供のことばかり考えている母親だったのに、子育てはほぼ麻痺した。

 わがままな父をひたすら看病していたのだけれど、色々あって父も病院を出なければならない状態になった。紆余曲折あって、母の住んでいる市内にある緩和病棟に、なんとか入れてもらうことができ、転院した。すると数日で息を引き取った。

 今までのゴジラが暴れまくる看病とうってかわって静かな旅立ちだった。心拍が落ちてきたことを病院側から伝えられて病院に行った。看取ったときは明け方だった。母はタクシーで何とか来ることができた。遅れてきた弟が、ちょうど宿直明けで病院に来ることができた。仕事の休みを取るために電話で勤務を調整しているときに旅立った。

 今まで苦しんで闘病と看病をした父と家族にとって、父の死は、神様から全員の苦労を讃えられた感じであった。家族で顔を拭きながら、「父さんよく頑張った」と言って父を褒めた。今まで苦しんで苦しんで生きた父と、苦しんで苦しんで父を支えた家族に捧げられた、頑張ったねというゴールだった。

 家族も泣くほどのゴジラっぷりに振り回されたけれど、本人も生きるのが本当につらくて、終わりを迎えて天国に行くのを全員で見守った感じだった。

 親孝行は親のためではない、自分のためだと、看病中弟から聞かされていた。ゴジラに振り回されて必死すぎたため、自分のためとか親のためとかヨウわからず、ただ目の前にある荒れ狂うゴジラの消火活動を毎日していた感じだった。でも、思うところあり、自分が将来、反発心なく親のことがわかったとき、ああ、もっと看病しておけばよかったと後悔しないよう120%の力で看病した。そして、そんな考えすら全くできないほど余裕がなかったけれど、私の中で確かなものになっていった。

 7年たった今、ウラミツラミも消え、やっと親をありがたいと思うようになったけれど、親孝行したかしないかに関してまーったく後悔していないのは、色々あったけれど実力以上の力で親を看取ったからだと思う。

 私は思う。親孝行は親のためではない。将来年老いた時に親に感謝するその将来の自分に対して親孝行するのだと、ウラミツラミを散々、散々、ぶちまげたものの、思う。

今は理解したり和解したりできなくても。

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