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【映画鑑賞報告】まひるのほし

佐藤真監督作
ドキュメンタリー作品『まひるのほし』

この作品を知って、今観ることができて本当に良かった。そんなふうに思える作品は少ないけれど、佐藤真監督の作品にはそう思わせてくれるだけの魅力がある。観客に寄り添いつつもその感情を安易なところに誘導する様な作品はドキュメンタリー作品には(にも)多い。また或いは、観客への監督の主義主張の説明となってしまっている作品も非常に多いと感じる。けれども佐藤真監督の作品にはそんないやらしさは微塵もない。むしろ観客と一定の距離感を保って、次第に製作者の存在が透けて見えなくなる様な具合だ(撮影された映像だということを明らかにしつつも、あるいはそれがあってこそ実現するものなのかもしれないとも思った)。そして、見事なほどに観客の期待を裏切ってくれる。この感覚は濱口竜介監督の「悪は存在しない」にも通じるところだと感じた。
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以降は本作のネタバレを含む

いわゆる、可哀想な障害者への支援的な文脈での作品ではない。我々の障害を持つ人という取ってつけた様なレッテルを剥ぎ取ってくれる様な作品となっている。ぽろっと溢れたつぶやきや、ふとした動作の中に、同じ人間としてこれ程共感できるのかと思うぐらい強く「それほんまにわかるわぁ」というところがたくさんあった。けれども、次の瞬間には理解できない少し暴力的とも捉えられる言動などが映されたりと一筋縄では行かないのがこの作品の面白い部分。だからこそ等身大の人間に迫る素晴らしい作品なのだが。

ある施設に川村紀子さんという方がいる。
川村さんが色鉛筆で作品を力強く描かれていた。ひとしきり描いた後、色鉛筆を鉛筆削りで削って先端を整えていく。そうしてまた描き始めるのかと思えば、その削りかすをしばらく指で触っているのだ。割と長い間指で削りかすをこね続ける。僕はここにすごく共感した。めちゃくちゃわかる。些細な部分に面白さを見つけてそれで遊ぶこと。むしろそれが面白いから絵を描くことが好きだったほどだった記憶を思い出した。僕の場合は水彩絵の具のパレットにこびりついた絵の具を水で溶かしていくときにその流れる色のついた水道水を眺めることが好きだった。今でもその時のことをありありと思い出すことができる。思えばこの現実はある一側面からみると悲劇そのもので悲しみに満ちているのだけど、ただ今を感じること•ただ今やっていることに楽しみを見出すことが人生を強くしぶとく楽しく生きるヒントになるかもしれないなとふと思った。

ある施設で陶芸をするヨシヒコさん。
彼はとてもキュートで、そのあり方は言葉に表すことが難しいぐらいの良い味が出ている。ほんま情けないわぁというのが彼の口癖で滋賀県の施設で陶芸をされている。野焼きで作られるその工程を垣間見ると、彼の作品の力強さも相まってなんとも呪術的な縄文的魅力を感じざるおえなかった。縄文時代の仮面や首飾りなどは赤と黒の2色で彩色されたものが特に多く出土されている。縄文人にとってこの黒と赤という色には特別な思いや意味があったのだろう。この映画の野焼きのシーンを見ると、その理由が分かった気がした。暗闇に怯える人類は、炎を使い身を寄せ合い食物を食べたり、焼き物を作ったりしたはずだ。夜の暗闇の黒と炎の赤は縄文人にとっては現代人以上に印象深いものだったのだろう。また、炎によって人間を含む動物は命が失われるが、土器はその逆で炎により生まれるものなのだ。野焼きの場面は火葬場の様でもあるのだけれど、全く逆の創造の場であることに面白みを感じた。そこに縄文人も面白みを感じていて、それが赤と黒の象徴的な色の組み合わせに繋がっているとすると面白いななどと妄想する。その後人類史的に言うと、人類は太陽を神として祀り、夜の世界は外部化されていってしまう。そんなのちの人々の集権的体制が築かれる以前の古代の人類にとっての闇の世界への眼差しを野焼きを通じ感じとることができた。私たちの祖先が行った見えないものの外部化という力学は私たちが「障害者」という言葉で括りそれ以上を見ようとしない或いは無いものとしてしまうこととも重なってくる。この言葉以上に雄弁な野焼きのシーンはその外部化以前の渾然一体となった世界へと私たちを誘うこの作品自体を象徴しているかの様でもあった。話を戻そう。ヨシヒコさん自身はキュートと言ったが同時にかっこいい人でもある。彼は彼自身のプライドがあり、それは自分を大きく見せることでも取り繕うわけでもなく、創作を通して自分にとって大切なことを皆に伝えることにあるのだなと感じることができたからだ。そして自然と他者への敬意の気持ちが直接的な言葉がなくとも伝わってくる。情けないなぁ、ちょっぴり情けないなぁ、これは本当に情けない、など自分への情けなさを吐露する謙虚な彼のあり方が忘れられない。

最後に、やはりこの作品の中での一番のトリックスターであり主演級であるシゲちゃんに触れないわけにはいかない。彼は叫ぶ。様々な言葉を。大概は女性に関連したこと、女性とお話ししたい。女性に自分の名前を呼んでもらいたいなどといった言葉だ。しかし、本作を観終わると彼の言葉の奥底にはもっと別の、言葉にできない何かがある様に思えてくる。映画終盤、不在の母の理由が明らかになった衝撃のシーンののちに突然映像が切り替わる。シゲちゃんは海に向かい波に怯えながら何かを叫ぶ。その言葉の意味が重要なのではない。それはこんこんと自分の内から湧き上がるエネルギーの発露なのだ(海で撮影陣にけしかけながらやらされていることでそこに初めて躊躇が生まれることこそが逆説的にそれを裏付ける)。そして、自分ではコントロールできないエネルギーの発露こそが芸術の本質であり根源ではないかと本作は私達に訴えかける。


彼らの創作の様子はまさに喩えるならば真昼の空の奥に人知れず輝く恒星(まひるのほし)の姿そのものであった。

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こちらに、シゲちゃんや川村さんのことが語られています。映画の外の彼らの姿を知りないなら読むと良いです。

https://note.com/palabra_inc/n/ndae2c8efca01

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