見出し画像

暴力は本当に減少しているのか―スティーブン・ピンカーへの反論

はじめに

冷戦末期の1989年に、民主主義と自由経済の最終的勝利を予言したフランシス・フクヤマの論文「歴史の終わり」は、大きな論争の的になり、書評だけでも150本以上寄せられたそうですが、アメリカの民主主義への疑義、権威主義やポピュリズムの台頭に直面している現代では、同論文は批判対象として枕詞のように引用されます。

例えばイワン・クラストフ/スティーブン・ホームズ『模倣の罠―自由主義の没落』では、冒頭にフクヤマの同論文が引用したうえで「『ほかの方法(アメリカ民主主義と自由経済以外)は存在しない』といううぬぼれこそが、中東欧で起こったポピュリズムや外国嫌いの波を生み出す独立した要因になったのだ。そしてこの波は世界のほとんどの地域を飲み込んでいる」と批判しています。

「合理的楽観主義者」スティーブン・ピンカー

そして現代、歴史家や人類学者の中でもっとも大きな論争を起こしている学者といえば、スティーブン・ピンカーではないでしょうか。

「長い歳月のあいだに人間の暴力は減少し、今日、私たちは人類が地上に出現して以来、最も平和な時代に暮らしているかもしれない」

と論じたピンカーの言説は、激しい論争の的になっています。

「合理的楽観主義者」とも評されるピンカーの賛同者も多く、例えば『ファクトフルネス』や『希望の歴史』などの一般書や、今や花形歴史家となった(一見ニヒリストの)ユヴァル・ノア・ハラリの『ホモ・デウス』などにも受け継がれています。

しかし、今回取り上げたいのは、そうした「合理的楽観主義者」に対する批判です。

ジョン・ダワーの反論

一人は、アメリカの日本近現代史研究家のジョン・ダワーです。ダワーは「アメリカ暴力の世紀」(2017年)の第1章をまるまるピンカーら「暴力減少主張派」への反論に割いています。

ダワーはピンカーらの方法論を批判しています。

〇死者以外の大惨事に目を向けていない。例えば2015年、世界中で迫害、紛争、拡大する暴力、人権侵害によって強制追放された人々の数は6000万人を超えており、第二次世界大戦以来最高レベルに達した。

〇紛争に関連した経済制裁による数十万人にものぼる幼児死亡、身体障碍者、孤児や未亡人など「はっきりした形では見えない」暴力の影響を計算に入れていない。

〇PTSDなど心理的・社会的な暴力も含めていない。

〇戦争、紛争、軍事化、死の恐怖が市民社会ならびに民主主義におよぼす打撃など数字に表せないものを考慮に入れていない。

〇敵の兵士や市民の死者、戦争によって引き起こされた飢餓や病気による死者、戦争後に放射能や枯葉剤などで亡くなった死者、内戦や部族間・民族間・宗教対立による死者、政府によるジェノサイドによる死者を計算に入れていない。

ーーとしています。

ローレンス・フリードマンの反論

もう一人、イギリスの軍事史家・ローレンス・フリードマンの言説を取り上げてみましょう。
同氏の『戦争の未来』でも、ピンカーの主張を批判しています。すなわち

・死亡数÷総人口という計算方法や、過小な死者数推測の採用、死者が発生する速度、長寿命の無視など、方法論に問題がある。

・戦争の経済的リスクの考慮や暴力を避ける傾向など人類の進化を過信するあまり、シリア内戦などの死者数から目をそらしてしまった。

――のです。

進化への過信

ピンカーら「合理的楽観主義者」への反論を2つだけ紹介しました。しかしなぜ「暴力減少論」はこうも根強いのでしょうか。私は結局、フリードマンのいうように「進化への過信」によるものだと思います。人類は学び続け、発展し続け、暴力を減らし続けてきたという進化への過信。
これは結局、冒頭のフランシス・フクヤマの「うぬぼれ」と同じ流れなのではないでしょうか。ヘーゲル以来、人類は政治や経済を洗練させつづけ、学び続け、進化してきたと。結局欧米中心の発展段階史観が、こうした歴史認識の誤謬を生むのではないかと私は思います。そうすると、冷戦以後のフクヤマとピンカーは、分野こそ異なるものの、同じ潮流に位置づけられるのではないかと思うのです。

関連記事


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?