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東京・水戸「尊王攘夷の旅」1日目

いきなり物騒なタイトルですが、2023年3月8日から12日まで、東京と水戸に旅行に行きました。東京の知人・友人と旧交を温めるのが主な目的でしたが、さいきんテーマとしている幕末の尊王攘夷思想について、ゆかりの地を訪ねてもみました。まだまだ勉強中なので、写真とともに、みなさんともに、楽しく学ぶぜ。あっ私は決して右翼でも過激思想の持主でもなんでもなく、ただの民主主義者?です。

博多から東京に行くのに新幹線を使うという愚挙を犯して、5時間電車に揺られて東京に着いたぜ。さっそく向かったのは、日本橋小伝馬町の傳馬町でんまちょう牢屋敷の跡地という偏向行動。1613年から1875年までここに牢屋があったというのだから、それは心霊スポットにもなるわな。

傳馬町牢屋敷跡地の公園

なぜこの地に訪れたかというと、長州の尊王攘夷思想家・吉田松陰が亡くなった場所だからです。松陰は「安政の大獄」でこの地に獄され、刑死するわけだけれども、安政の大獄の真のターゲットは、尊攘派の水戸藩藩主・徳川斉昭であるといわれています。徳川斉昭は謹慎、政治生命を絶たれ、水戸藩の重鎮も一掃されるわけで、吉田松陰はとばっちりといえばとばっちりだけれども、吉田松陰は水戸学に傾注し、はるばる水戸まで遊学するわけだから、水戸学一派と目されても仕方がないわけです。しかし吉田松陰の刑死は決して小さな出来事ではなく、弟子の高杉晋作や桂小五郎ら長州勢が倒幕を誓うわけですから、大きな転機ですよね。明治維新が相成り、爵位や贈位を得た吉田松陰の弟子は23人に上ります。

吉田松陰終焉の地

吉田松陰の終焉の地の割には、小ぶりの公園に、小ぶりの石碑でした。おそらく辞世の句、

「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」

が刻されているのだろうけれども、雨風に晒され判読できない状態になっています。吉田松陰を表敬する人も多いのだろうけれども、それ以上に近隣住民にとって、過激思想の人や心霊マニアの人が集まられても困るのでしょう。今は十思公園として生まれ変わり、幼稚園児たちの散歩の地になっていました。

牢屋敷の石垣がわずかに名残をとどめる

続いて向かったのは、小石川の後楽園。なぜって、水戸学の始祖・徳川光圀が完成させた庭園だからね。

後楽園の入口

東京ドームが見えますけれども、このあたり一帯はぜんぶ、水戸藩の上屋敷があったところです。水戸藩は35万石規模の藩にも関わらず、江戸に33.7ヘクタールの上屋敷を有していました。大藩の加賀藩や尾張藩に匹敵する屋敷を構えていたんだね。「副将軍」という役職は現実にはなかったのだけれども、水戸藩は諸藩で唯一、藩主の「江戸定府」が義務づけられていました。藩主は江戸に常駐して将軍を補佐し、時には代わりとなって職務を果たさなければならなかった。というわけで実力以上の屋敷を江戸に構えなければならなかったし、江戸の藩主派と水戸の重臣たちのねじれ現象を起こしたし、なにより藩の財政を圧迫し、民は貧しく、藩士は過激な土壌を生んでしまったのかもしれません。

回遊式和泉庭園である後楽園


九八屋。酒は昼は9分、夜は8分にすべしという教えから。

水戸学は儒教がルーツであり、尊王攘夷の愛国史観も、もとはというと中国の思想がルーツです。徳川光圀は明の亡命中国人儒学者・朱舜水しゅしゅんすいを招き、師と仰ぎます。後楽園は随所に中国の名所にちなんだ景観を配した中国式の庭園であり。だいたい後楽園の由来は、中国の教え

「士はまさに天下の憂いを先立って憂い、天下の楽しみを遅れて楽しむ」

から来ています。

梅だって中国文化の象徴みたいなものだからね

藩主が江戸常駐の水戸藩。とうわけで徳川光圀も当然、ここ小石川の水戸屋敷で生まれ…たわけではなく、水戸の城内で生まれたのでもなく、水戸城外の家来の屋敷で生まれます。それが水戸学の形成に大きな影響を及ぼすのですが、それは次回に譲ります。

1日目はこの後、小石川の印刷博物館や目白の和敬塾(細川藩邸跡)を訪問したり、千葉の船橋で知人とディナーしたりして、終わり。(2日目につづく)


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