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東京・水戸「尊王攘夷の旅」2日目前編

1日目から続きます)。

2日目はついに水戸へと旅立ちました。といっても上野駅から特急で1時間強で着くんだけどね。

私は水戸について完全に不勉強なので、もろもろの史跡をとりあえずスルーして、まずは茨城県立歴史館に行きました。

茨城県立歴史館

若き日の徳川光圀が実はグレていたことはけっこう有名かもしれません。具体的には「かぶきもの」だったわけですね。色とりどりの派手な服装を着、風紀を乱すといわれる三味線を弾き、下々と下ネタ話をし、風俗通いで変装して朝帰り。徒党を組んで刀で脅し、時には罪なき人を斬って捨てたことも…織田信長もグレていて、家臣の平手正秀が死をもって諫めたわけですが、徳川光圀にも小野言員ときかずが諫言を行なっています。それが「小野諫草」というのですが、なんと教戒を16カ条にもわたって述べている。相当堪えかねる状態だったのでしょうね。

小野言質の諫言は16カ条にわたる

でも小野言員は「今の振る舞いには奥意があるのだろうから、どうか教えてほしい」とも書いています。光圀が生来のワルではないことはお見通しだったのでしょう。では光圀は何に苦しんでいたのでしょうか。

実は光圀は「捨てられた子」でした。久子という側室から産まれ、父の徳川頼房は正室を怖れ、堕胎するように命じたとあります(異説もあります)。しかし家臣が慮って久子を匿い、無事出産させました。しかし6歳のとき、今度は跡継ぎに指名されます。「捨てられ、選ばれる」わけです。
ところが光圀には、同様の事情を経て産まれた兄がいました。優秀な兄を差し置いて自分が嗣子になっていいのか、そこに道義はあるのか…悶々と悩み、非行に走ったわけです。
そんな18歳の時に読んだ『史記』の「伯夷伝」を読み、天啓を受けます。「伯夷伝」は義を重んじる兄弟がともに王座を譲り合った話ですが、感銘を受けた光圀は、非行を反省し、仁義礼節の道を進むことを決意します。そこで取った決断というのがまたウルトラCで、自分は仕方なく藩主を継ぐけれども、自分の後継者は兄の子になってほしい、というものでした。光圀は周囲の反対を押し切り有言実行し、水戸藩は光圀のあと、兄の子がつぐことになるのです。ちなみに光圀の実子は、兄の讃岐高松藩を継ぎます。

水戸光圀といえば『大日本史』の編纂ですが、人倫道徳の観点から皇国の修史を編纂しようと決意したのも、『史記』の紀伝体が踏襲されているのも、「伯夷伝」の影響なのですね。読書体験ってすごいなあ。

『大日本史』

水戸藩といえば大日本史を編纂した徳川光圀(義公)、弘道館と偕楽園を作った徳川斉昭(烈公)、そして御三卿の一橋家を継いだ後、15代将軍となった徳川慶喜を押さえておけばいいかなあ。歴史館には一橋徳川家記念室というのもあって、慶喜が大政奉還への決意を家臣に示した書状なども展示されていたよ。尊王攘夷を貫いた斉昭はもちろん、慶喜の「委任されていた大政を、天皇に奉還する」という発想自体、水戸学を踏襲しているのは間違いないところだね。

大政奉還を決意を家臣に伝える書状

さて、お勉強もできて、歩いて偕楽園に行く。ちょうど梅のシーズン、おじちゃんおばちゃんがたくさん来てた。桜が咲き乱れるのは観たことがあるけれども、梅が咲き乱れるさまは初めてみた。なにしろ3000本の梅の木だからね。

偕楽園の梅。最初は梅干しのための苗木を育てる場所だったとか。

偕楽園からタクシーで「回天館」へ。
回天館って確かに展示館ではあるが、そもそも福井県の敦賀から移されてきた鰊倉(鰊粕の貯蔵施設)なんだね。横浜鎖港を要求し、筑波山で挙兵した天狗党が敦賀で投降した際、これらの倉に閉じ込められ、虐待され、斬首される。その数353名。

回天館

それらの墓が回天館のある回天神社に置かれている。無名の墓ではないけれど、一律に柱が立っていて、まるで何千万人の死者を出した第一次世界大戦の共同墓地みたいだ。この神社には安政の大獄、桜田門外の変、坂下門外の変、甲子の変、奥羽戦争などの犠牲者1865柱が祀られている。幕末に諸藩はあれど、これほどの犠牲者を出した藩は水戸藩の他にない。

天狗の党の乱や水戸戦争で亡くなった1865柱を祀る

回天神社からバスに乗って水戸駅に戻る。長くなったので後編に譲ります。

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