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東京・水戸「尊王攘夷の旅」2日目後編

前編より続きます)

水戸駅まで戻ってきて、北口から「水戸学の道」を歩く。1周2.5キロの散策路なんだけれども、かつての水戸城の二の丸・三の丸のほぼ外周を辿る道なんだね。ネットの旅行ガイドとかを見ると、弘道館に隣接した別スポットとして説明されているけれども、水戸城は弘道館どころか、現在の筑波大学付属小学校、同幼稚園、県立水戸第三高校、市立第二中学校、市立三の丸小学校、県立図書館、県庁三の丸庁舎などの敷地を内包する巨大な城塞でした。35万石の水戸藩で、江戸では諸藩1、2位の上屋敷を設け、水戸ではこれだけの城を構えるんだから、それは藩政も疲弊するわ。蛇足すると35万石というのも水増しなので、年貢もそれだけ納めなければならず、農民もひっ迫するわけです。

「義公生誕の地」は正確な場所ではない

さて、まず線路沿いに「義公生誕の地」が見え、小さな祠があります。前述した通り、義公(徳川光圀)は父・徳川頼房の正室に疎まれる懸念からひそかに家臣邸で産まれます。だからこんな城外に産まれたのだなと思うとそれも間違い、なんと徳川光圀の生誕の記念塚は、明治30年に国鉄水戸駅が拡張される際に常陸太田市に移転させられたのであって、正確な生誕地は現在の水戸駅構内の東端に位置するそう。水戸光圀の記念塚すら移転させる当時の国の強制力はある意味すごい。というわけで「義公生誕の地」はまったくの間違いなのです。

水戸の彰考館と「大日本史編纂の地」の石碑

なんてことを考えながら小高い台地を登っていくと、柵町坂下門、杉山門、椎の木、などを経て、水戸彰考館跡と「大日本史編纂の地」が見えてきます。彰考館は徳川光圀が前述の小石川上屋敷で開局した編纂所でしたが、晩年の光圀が生前の完成を断念し、彰考館を水戸のこの地に移します。大日本史の完成は彰考館の廃局以降の明治39年(1906年)というから、完成に350年を要しています。歴史編纂作業で大変だけれども、大日本史も歴史論争に巻き込まれるわけで、キリがないね。

弘道館

さらに城内跡の散策路を歩いていくと、見えてきました「弘道館」。江戸時代後半の藩校ブームの時に、徳川斉昭が建てた水戸藩校です。水戸学の精神を引き継ぎ、「神儒一致」「忠孝一致」「文武一致」「学問事業一致」「治教一致」を掲げます。びっくりするのは玄関からいきなり見える「尊攘」という大きな文字の掛け軸が。いや、過激ですね、水戸藩。

玄関からいきなり「尊攘」の2文字が見える

生徒の似顔絵付きの教本やらもありましたが、目に付くのは教育機関という位置づけよりも、幕末政争の重み。江戸開城により徳川慶喜が謹慎した「至善堂」、そして水戸藩の内戦「弘道館の戦い」による弾痕が残る「正門」など、思わず姿勢を正さなければならない場所も多かったです。水戸斉昭は藩政改革に励み、尊王攘夷のために那珂湊に反射炉を作り、武器も生産しましたが、それが使われたのは水戸藩士の同士討ち。せっかくの反射炉も破壊され、内戦で数千人の水戸の人々が犠牲となった。なぜこのような凄惨な殺し合いが起きたのかについては、私ももっと勉強しなければならないですね。

徳川慶喜が謹慎した至善堂
正門に残る弾痕

――水戸編はこれでおしまい。ところが東京・上野に着いてふと思い立ち、彰義隊の墓も訪れてみた。

彰義隊の墓。「尽忠報国」の文字も

彰義隊は無血開城した江戸で行われた戦争であるが、半日で決着した。はるか数キロの加賀藩上屋敷(現東京大学本郷キャンパス)から「佐賀の大砲」アームストロング砲が飛んでくるは、最新のスナイデル銃が使われるはと近代戦でもあったが、武士が斬りあう白兵戦も行われました。激戦地となったこの地は隊士の遺体の火葬場にされたましたが、1874年にようやく新政府の許可を得て、彰義隊の墓が作られました。朝敵とされた彰義隊の墓には、今は「尽忠報国」の文字も見えます。

彰義隊の墓は西郷隆盛像の裏にあります

なおこの墓は、あの西郷隆盛の像の裏側にあります。新政府の陸軍大臣として幕府軍と戦い、のちに西南戦争で朝敵とされる西郷隆盛の像と、彰義隊の墓がほんの十数メートルの位置にあるというのも、なんとも感慨深いです。
この後、ホテルに帰り、2日目終了。3日目に続きます。


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