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東京・水戸「尊王攘夷の旅」3日目(最終回)

2日目後編から続きます)

3日目は昼食会と飲み会を元同僚のみなさんと開く予定だったので、朝に慌ただしく皇居(旧江戸城)に行ってきたよ。

前述のように、井伊直弼が「安政の大獄」で目論んだのは徳川斉昭はじめ水戸一派の一掃でしたが、水戸一派は「桜田門外の変」というテロで報復に出ます。テロでは何も生まれないとも言いますが、実際このテロによって、尊攘派は息を吹きかえし、幕府の権威は失墜します。

桜田門外の変(茨城県立歴史館より光山撮影)

桜田門外の変の詳細についてはここでは省きますが、桜田門、行ったことありますか?私はありません。あんなに有名な事件なのに、現場を訪れる人は少ない。というわけで早朝の時間を使って、桜田門を訪れてみました。
前もって東京散歩ガイドブックを読んだのですが、桜田門の説明書はまったくないのに、井伊家の邸宅の説明書きは地図上に書いてある。見るとなんと桜田門から井伊邸まで1ブロック、数百メートルほどの距離ではないか。このわずかな距離を、彦根藩藩士60人は、18人の水戸一派を襲撃を守れなかったのでしょうか。

この日は3月3日、ひな祭り。祝賀のため諸藩が登城を求められていた。大名行列の見物客もたくさん訪れていた。水戸一派はいわゆる大名ガイドブックを片手に、見物客の田舎侍を装っていた。雪が雨に代わり、薄暮となった。彦根藩士は雨合羽を体と刀に覆っていた。条件はすべて整った。午前10時ごろになった。
水戸一派はピストルの合図とともに、彦根藩の駕籠を狙った。彦根藩士は雨合羽により抜刀できない。諸説あるが、銃弾をはじめに受けた井伊直弼は、自慢の居合を生かすこともできなかった。抜刀攻撃を受け、駕籠は放置された…

彦根藩上屋敷は、今は国会議事堂の前庭です。ちょっとした丘の上にあり、江戸城方面を見ると、桜田門がはっきり目視できます。


彦根藩邸跡から桜田門を望む


御濠に沿って、桜田門に向うと、やっぱりものの10数分で桜田門に着きます。このわずかの間に襲撃は成功したわけです。


桜田門

桜田門の傍には「旧江戸城外桜田門」という看板があり、西の丸防備のために320坪もの異例の城門である、関東大震災で破損し、復元された等などを説明したあと。末筆に

「万延元年(1860)三月三日、この門外で大老井伊直弼が水戸藩脱藩士に暗殺されました(桜田門外の変)」

とだけ、ごく淡々と書いてあります。

水戸に行くと桜田門外の変のテロリストですら「桜田事変殉難者」「水戸殉難志士の墓」などと、英雄、すくなくとも受難者として祀られているのに対し、江戸城ではなかったことにしたいくらいの扱いです。それはもちろん、幕府側・朝廷側両者の事情があると思われます。幕府側はこの失態をなかったことにしたいし、朝廷側もテロを称賛することはできない。そして明治維新後の政府は水戸藩のことを持ち上げる必要も刺激する必要もない。というわけでモニュメント一つ作られず、ガイドブックにも一切載っていないわけです。
桜田門外の変は二・二六事件や三島由紀夫事件まで連なる「君側の奸側へのテロ」だと評されます。そんな厄介な事件に君も奸も触りたくないのでしょう。

一方、桜田門から城内に入って数分で見えてくるのが、でっかい楠木正成の銅像。

皇居外苑の楠木正成像

こちらは皇国史観の人々の中でも微妙な問題を乗り越え、大々的に英雄視できます。かつては「南北朝正閨問題」という大問題があって、現天皇家の系統である北朝が正しいのか、楠木正成や新田義貞といった忠臣がいる南朝が正しいのか、政治やジャーナリズムを巻き込んだ論争になり、非常にデリケートな問題になっていました。しかしその間にも国民の忠臣たちへの人気が高まり、戦前はそういった問題を乗り越えてしまいました。そしていま象徴天皇の時代では、楠木正成らの功績を自由に語れるようになり、再び人気は高まっています。

なんで「尊王攘夷の旅」の最後に楠木正成を取り上げたのかというと、水戸学の創始者・水戸光圀は大の楠木正成ファンだったからです。楠木正成が戦死した湊川の戦いの故地に、周囲の根回しもせず自筆の石碑を建ててしまうくらいです。『大日本史』でも南朝を本紀に据えるという大日本史の「三大特筆」の一つになっています。


徳川光圀が湊川に建てた楠木正成の墓の碑文(茨城県立歴史館より光山撮影)


――4日目、5日目は会食や打ち合わせがあり、6日目は新幹線で兵庫県の湊川に向ったのですが途中下車できず、やむなく博多に帰ってしまいました。というわけで今回が最終回です。
福岡に住んで薩長土肥の西国雄藩から幕末の勉強を始めたので、偏ってはならないと今回、水戸学という視点から幕末のゆかりの地を訪ねました。複雑な経緯を辿る幕末・維新も、水戸学の視点から見るとなぜかすっと理解が進んだ気がします。結局、歴史の露と消えた水戸藩の人々ですが、現代になっても武士道と尊王思想を混交して語られることが多いのではないでしょうか。武士道とはなにか、そもそも大和魂とは何かを考えるときに、尊王攘夷思想のルーツをたどるのも意義があるのではないでしょうか。



(写真はすべて光山忠良が撮影したものです)。

参考文献
片山社秀『尊皇攘夷 水戸学の四百年』
三鬼清一郎『大御所 徳川家康』
鈴木暎一『徳川光圀』

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