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光雲神社の変遷から見る黒田家と徳川家の不思議な縁

福岡市の大濠公園は福岡城の西堀だったことからその名がついたわけですが、そこからスコーンと北に直進すると、52段の石段があり、上ると光雲てるも神社が見えてきます。なぜ光雲神社かというと、黒田如水(龍光院)と黒田長政(興雲院)の法名二字から取ったから。52段というのも黒田52万石にあやかったものであり、境内には黒田節で有名な母里太兵衛の立像があることからも、黒田家ゆかりの神社であることが分かります。

ところで、ここに光雲神社が遷移されたのは明治42年(1909)であり、そもそもここに何があったかというと、徳川家康を祀る(荒戸山)東照宮があったのです。なんでも神殿・拝殿・玉垣瑞垣・唐門・神厨・宝蔵など、尊厳なたたずまいの社だったそうですよ。

でもなぜそんな立派な東照宮が建てられたかというと、江戸三大御家騒動のひとつ「黒田騒動」の当事者である2代藩主・黒田忠之が、徳川幕府に忠誠を示すために承応元年(1652)に建てたのです。これほどの大騒動にも関わらず黒田家は実質お咎めなしで、黒田家権力の維持・強化につながったわけですから、黒田家は徳川家には頭が上がらなかったわけです。

以前、幕末の黒田藩が佐幕派に付き、明治維新に乗り遅れてしまった件について触れましたが(関連記事参照)、直木賞作家である白石一郎氏はその理由について、黒田騒動により幕府一辺倒になって、倒幕に踏み切れなかったからとしています。「徳川家康御感状」(関連記事参照)と合わせ技で、外様雄藩の黒田藩は佐幕を貫いたのでしょうか。

明治維新により荒戸山東照宮の意義がなくなり廃れます。一方黒田家の神社ですが、明和6年(1766)に福岡城二の丸で創建された長政の祀った祠堂が明治5年(1872)に吉祥院跡(天神南の警固神社近く)に遷されますが、明治42年(1909年)、荒戸山東照宮の跡地に遷ります。昭和20年(1945)に戦災で焼失、昭和41年(1968)に再建されたというから道理で新しいわけだ。
しかし、徳川家と運命を共にした黒田家の光雲神社が、徳川家を祀る東照宮跡地にあるというのも、歴史の皮肉というか、不思議な縁ともいえますね。

参考文献 
光雲神社ホームページ
西日本シティ銀行編『博多に強くなろう北九州に強くなろう』
萬盛堂歳時記「荒戸山東照宮」

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