徳川家康の感謝状が偽物だった件
薩長土肥(薩摩・長州・土佐・肥前)が倒幕の主役を担ったのに対し、同じ西国雄藩だった福岡藩が目立った活躍ができなかった理由については、以前記事にもしました。月形洗蔵ら勤王の志士が一時的に活躍したものの、佐幕派だった藩主の黒田長溥による「乙丑の獄」により勤皇派は一掃され、明治維新に完全に乗り遅れるのです。
黒田家が子々孫々まで佐幕派、つまり徳川家に忠実だった理由として、「徳川家康の感状(感謝状)」があったとの見方があります。徳川家康が関ケ原での黒田長政の戦功を讃えて、「子々孫々まで粗略にしない」との内容の感状を贈ったというのです。黒田家に伝わった徳川家康の感状は福岡市博物館で立派に所蔵されていますし、検索するとウィキペディアや福岡県朝倉市のホームページなどでもちゃんと触れられています。
というわけで今日、福岡市総合図書館の郷土資料室に行って、徳川家康の感状の原文を調べてきました。
読み下し文はこうです。
なるほど。黒田長政の計略によって(小早川秀秋、加藤清正、福島正則など)諸将を東軍に引き入れ、西軍を敗北させたのはお手柄でした。領国はご所望のままに。子々孫々疎略にはしません。と確かに書いてある。子々孫々まで疎略にしないとの保証もすごいですが、領国を望み通りにするとの保証もすごいですね。
ところがですね。福岡市博物館編『黒田家文書 第一巻』219-220ページの「注解」によると、
とあるではないか。
その理由は大要以下の通り。
① 他の家康発給文書と異なる用語・文体が用いられている。
② この時点では家康に閾所地の配分権がない。
③ 通常の家康発給文書では付年号は用いられない。
④ 書止文言(「候也」など)が他の家康発給文書と異なる。
⑤ 差出書と日付の位置関係が異例である。
⑥ 料紙の皺が揉んで作ったものである。
⑦ 料紙の紙背の文字が焦げ茶色に浮き出ているのも作為のものである。
――ひどいですね。特に偽文書を作った後に、紙を揉んで、燻って古文書に見せかけるところが特に悪質ですね。
この偽文書は明和5年(1768年)を遡らぬ頃に、梶原景春か景良の謀議によって作られると推定されるそうです(徳川義宣『新修徳川家康文書の研究』による)。
偽文書なんだ、そうだったのか、で終わる話ではありません。1768年といえば明治維新のちょうど100年前。黒田家に献上され、たいへん珍重されたというのですから、幕末の黒田長溥の幕府びいきに大いにかかわったのではないでしょうか。
偽文書が歴史を動かしたという事件は、コンスタンティヌスの寄進状など、古今東西を問わずあります。
明治政府にもほとんど参画できず、玄洋社や水平社など在野の運動に向っていった福岡の人々。そう思いを馳せると、福岡の歴史を変えた恐るべき偽文書だったのかもしれませんね。
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