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「黒田節」は「黒田無視」? 福岡市民が黒田家に冷たい理由を探る

東京音頭のメロディで「酒は呑め呑め」と歌ったところ、母から「違うよ」と言われ、正しい「黒田節」を歌ってくれた。父も「黒田節は子供のころから知らないうちに覚えていたなあ」と振り返る。福岡市出身の知人も「黒田節は福岡県民なら誰でも歌える」と仰られていた。


♪酒は呑め呑め呑むならば 日の本一のこの槍を 呑みとるほどに呑むならば これぞまことの黒田武士


そう、黒田節は確かに、福岡を代表する文化遺産といえる。博多駅前の待ち合わせ場所は、黒田藩の始祖である黒田官兵衛でも黒田長政でもなく、その家臣の母里太兵衛の像の前である。母里太兵衛はその功績よりも黒田節の主人公として知られており、母里太兵衛の像は黒田節の象徴として建てられているのだろう。


母里太兵衛は「ボリ」とも「モウリ」とも「モリ」とも呼ばれるが、正しくは「ボリ」である。幕府が江戸城の修築の際の母里太兵衛の功績を書状でしたためたところ、書記が誤って「毛利」と書いてしまった。幕府から毛利と呼ばれてしまった母里太兵衛は、その後対外的には「毛利」と名乗り、それが「モリ」に訛ったという。黒田家の名将「黒田二十四騎」の一人であり、派手な武勇譚はないものの、体格の優れた武将であり、戦では度々先鋒を務めながら生涯無傷だったという。長政に遠慮なく諫言したり、富士山の前で地元の福智山(900.5m)の方が大きいと言って譲らなかったりと、なかなか豪胆な人物だったようである。


黒田節は母里太兵衛の次のようなエピソードから来ている。


黒田官兵衛の使者として京都・伏見城で福島正則に会った際、「大杯いっぱいの酒を飲み干したら欲しいものをくれてやる」と言われた母里太兵衛は一度は固辞したものの、見事に酒を、なんと三杯飲み干した。そこで所望したのは、まさに日本一といわれる名槍「日本号」。酔いの醒めた福島正則は渋りに渋ったものの、最終的に本当にくれてやった、という話。


これは逸話ではなく、黒田藩の学者・貝原益軒も記している史実である。江戸中期に藩士の高井知定が今様の歌を作って黒田藩の中期に歌われ、昭和の代になってレコードになって全国に知られ、普及した。


ようやく本題に入る。ところで福岡県民は、本当に黒田節を知っているのだろうか。父(1941年生まれ)も母(1946年生まれ)も知っている。宴会に慣れたビジネスマンも知っているだろう。しかし、それより若い、一般人はどうだろう。


少なくとも、私は知らない


私は1974年福岡県生まれ。転勤族の子供として各地を転々としており、大学からは東京暮らしであったが、それでも中高は福岡市で過ごした。ここ2年は福岡暮らしだ。しかし、私は黒田節を1回も生で聞いたことはない。


実は、福岡市民は、もはや黒田節とは縁がないのではなかろうか――そう仮定してみる。

そしてその理由を推測してみる。


一つは、福岡市民は、実は郷土史にそれほど興味がないのではないか、という話。例えばそう、日本一の国宝ともいえる「金印」は、巨大なハコモノの福岡市博物館の、常設展入り口に堂々と飾られているが、そのことを話題にする市民は極めて少ない。遠足で「ふーん」となった市民がほとんどである。私が訪れた際は、来館者が「これ本物ですか?」と学芸員に訪ねていた。そんな程度なのである。

そしてそう、くだんの黒田節の名槍「日本号」である。これは実は天皇から足利義昭に下賜され、織田信長、豊臣秀吉、福島正則、そして今回の母里太兵衛に受け継がれたまさに日本一の名槍であり、これもまた福岡市博物館に堂々と展示されている。しかしこの名槍すら、一般市民にはよく知られていない。

福岡市民に地元への愛着がない、というのではない。福岡市民の地元愛は尋常ではない。その割には歴史を知らないといいたいのである。福岡県は奈良県に次ぐ数の史跡があり、京都府さえも上回っているというのに…


2つめは、黒田藩に対する市民の馴染みの薄さである。

黒田藩(福岡藩)の藩祖・黒田官兵衛は、NHK大河ドラマ『軍師官兵衛』の主人公にもなった人物である。その子、長政も含め、軍記物ではおなじみのキャラクターではないだろうか。しかしその黒田官兵衛すらも、福岡では馴染みが薄いのである。

それは「銅像」にも表れている。軍記物の人物はみな、地元で銅像になっている。仙台では伊達政宗が青葉城址に、北条早雲は小田原城駅前に、武田信玄は甲府市駅前に、織田信長は岐阜駅前に、徳川家康は静岡駅前に、豊臣秀吉は大阪城に立派な銅像が立っている。九州を見たって、熊本の加藤清正、鹿児島の島津義弘、大分の大友宗麟と、有力な戦国大名はみな市民の憩いの場に銅像が立っている。福岡県内ですら、柳川には田中吉政や立花宗茂がある。

しかし、福岡市内には黒田官兵衛の像は博多駅にも、天神にも、福岡城址にもない。そこで調べてみると、確かにあった。しかし2007年に福岡桜ライオンズクラブが寄贈した小さな胸像が福岡市総合図書館の室内にあるだけであり、申し訳程度に作られたのだろう。

黒田家は福岡では馴染みが薄い――福岡市民の一部の方には、その事実に薄々気づいている。その理由をある歴史家は「幕末で勤皇志士を弾圧したからだ」と指摘し、ある市民は「福岡(黒田武士の町)と博多(商人の町)が門(枡形門)で隔てられていたからだ」と指摘する。


いずれも説得力がある。


前者に関しては、黒田藩は幕末、藩内の尊王攘夷派を一掃したため(乙丑の獄)、時代に取り残された。明治維新で活躍し、日本の政治・経済をリードした薩摩や肥前とは対照的である。おまけに贋札事件を起こした黒田藩は、全国に先駆けて廃藩置県の憂き目に会っている。


後者に関しては、門に留まらず、物理的にも心理的にも、福岡は博多と距離を置きすぎてしまった。

豊臣政権から徳川幕府にかけての大名の国替えにおいては、各大名が地元の有力者の鎮撫に苦労した。佐々成政は肥後一国を与えられるも、国人の反発を招き、豊臣秀吉から切腹を命ぜられている。土佐の山内一豊は旧長宗我部の武士たちを懐柔したり弾圧したり苦心した挙句、結果として上士・郷士の差別制度が出来上がってしまった。

そして黒田官兵衛・長政である。黒田官兵衛・長政は中津(大分県)時代、地元の豪族をだまし討ちして鎮圧した「前科」がある。筑前(福岡県)入部に際しても、地元有力者を警戒し、武士たちは武装して入部、「お国入り」ならぬ「お討ち入り」と呼ばれた。当初から博多商人らとの心理的距離感は相当なものであった。

博多からかなり西の福崎の地に福岡城を築いてしまったのも都市計画の失敗と、私は考える。なるほど軍事的にはあの熊本城を凌ぐ堅城となったともいわれるが、結果、博多と福岡は東西に分離し、江戸時代は「両市」と呼ばれるようになった。両市をかける橋は中島橋ひとつのみで、しかも軍事防衛上いつでも壊せるような貧弱な橋だったという。中島橋を渡るとくだんの「桝形門」という堅牢な門があり、通行人も厳しく検問され、博多部と福岡部の交流は厳しく制限されていた。地元有力者や博多商人とは、心理的乖離が生じたはずである。当初の計画のように、博多の箱崎や住吉、春吉などに城を構えていたらどうなっていたのだろうかと、想像してしまう。


というわけで、福岡をこよなく愛する福岡市民も、郷土史に疎く、黒田藩に疎いというのが私見である。博多駅前に黒田官兵衛ではなく黒田節の象徴を置いたのも、「黒田節」ならぬ「黒田無視」の結果なのではなかろうか。

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