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渋い渋い福岡市の史跡案内

ファッションとグルメの街・福岡市。それに魅せられて旅行に来られた方はみなさん満足されてお帰りになると思うんですけれども、歴史好きな方にとっては、ひょっとしたら物足りなく感じられるのではないでしょうか。たしかに福岡市内の史跡は渋い、かもしれない。でもそれでもいい、案内して、という歴史好きの方のために、史跡案内をさせていただきます(撮影はすべて光山忠良)

福岡市博物館(早良区百道浜)

いきなり史跡じゃないじゃんと思われた方、すみません。ここにいけば福岡市の歴史がざっくり分かります。日本一の国宝ともいえる「金印」は、志賀島に行かなくてもここで見られます。運が良ければ「黒田節」で謡われた「名槍日本号」や黒田長政の「水牛の兜」も見ることができるでしょう。金印は江戸時代の発見当初から贋作説があったのですが、漢尺でちょうと一寸(2.3㎝)、しかも中国雲南省から発掘された滇という国の金印が奴国の金印と瓜二つだったということで本物であるということが定説化しているらしいです。意外に勘違いする人も多いですが、魏志倭人伝の邪馬台国はいったいどこにあるか分かりませんが、後漢書の奴国は現在の福岡市都市圏にあったとみて間違いありません。

福岡市博物館

元寇防塁跡(西新地区、早良区西新)

文永の役で元軍に筥崎宮を焼かれるは、百道から麁原までを占領されるはと大苦戦し、緒戦で大宰府の防衛線の水城まで下がろうと決意した日本軍ですが、運よく元軍は撤退。次の来襲に備え博多湾の西は今津から東は香椎まで20㎞に渡る元寇防塁を築きました。そのうち西新地区の防塁は見ての通り可愛いものです。しかし今津地区(西区)の防塁は高さ3m、幅2mというのですから、兵馬をせき止めるには十分だったかもしれません。実際、公安の役では元軍は防塁に阻まれて上陸すらできませんでした。以後博多はその外観から「石城」と呼ばれるのですが、福岡城築城の際にずいぶん石を持っていかれます。日本史ではあるあるですが、福岡城の石垣に使われていると思うとロマンを感じますな。

西新地区の防塁跡。近隣に防塁という地名もある。

水鏡天満宮(中央区天神)

なぜ福岡の中心地が天神という名前かというと、この水鏡天満宮に由来します。もとはもっと南の今泉にありました。天満宮だから天神様すなわち菅原道真を祀っているわけですが、道真公が大宰府に下る途中、水面に映る自らのやつれた姿に嘆かれたという逸話から建てられました。だから水鏡天満宮なのですね。容見天神ともいわれます。
江戸時代の黒田藩入部の際、福岡城の鬼門の北東にあたるこの地に遷されました。今はオフィス群に挟まれた小さな神社ですが、近隣のビルの地鎮祭はもっぱら水鏡天満宮が執り行います。

水鏡神社。明治通りのビル群に囲まれて知らん人は知らん状態。


福岡城址(中央区城内)

城好きどころか地元にもスルーされがちな福岡城址。天守閣は築城当初はあったものの、幕府を恐れた黒田長政が大坂城再建のために提供を願い出たとか願い出てないだとか。ともかく天守閣は現存しません(詳しくは「福岡城に天守閣はあった?なかった?」)博多湾から見て横長だったため鶴が舞っている姿のようにみえ「舞鶴城」という優美な名称もついています。熊本城を築いた加藤清正さえ感嘆したという、立派なお城ですよ。

福岡城址。


天守台からの眺め。ペイペイドームも福岡タワーも見えますね。

鴻臚館跡(中央区城内)

鴻臚館って福岡のほか、大阪と京都にもあったのね。結果的にこの3都市が西日本で発展していくわけだけど、歴史的根拠があるわけね。外交の迎賓館みたいな役割だったから、遣唐使廃止と共に廃れていくのかと思ってたら、中国や朝鮮の商人たちのいわばホテルになり、平安中期まで栄える。それがなんと放火事件一発で、歴史の表舞台から消えます。そんな鴻臚館が時を経て、福岡城址の平和台球場から発掘されたんだからびっくり仰天だね。ある考古学者が唱えるまで、鴻臚館は福岡でなく博多にあったと思われてみたいです。古代においても陶器の商業ルートはしっかりあったみたいで、イスラム圏の陶器も出土してます。まあ鴻臚館跡は寂しい体育館みたいなところだけど、散歩ついでにお勉強するのにオススメです。

鴻臚館跡。

平尾山荘(南区平尾)


70代になる母が幼いころ友人から「ボートーニに行こう、ボートーニに行こう」と誘われたといわれてなんのことだと思ったら野村望東尼(1806~1867)の隠れ家のことでした。元の人にとっては小ぶりの憩いの場ですが、当時は勤皇派のアジトだったのです。とりわけ高杉晋作との交流は深く、姫島に流刑になった望東尼を救ったり、逆に救われたりします。高杉晋作が病床で、辞世の句「面白きこともなき世をおもしろく」を詠んだところ、下の句「すみなすものは心なりけり」と継いだのはほかならぬ野村望東尼だったのです。
乙丑の獄で勤皇派が一網打尽にされたため目立ちませんが(「幕末の福岡藩が目立たなかった理由」を参照)、月形洗蔵(「月形洗蔵の光と影」参照)、加藤司書ら活躍した志士はたくさんいたのですね。


平尾山荘

名島城址(東区名島)

福岡市民は高速道路の降り口としか認識していない名島。小早川隆景が秀吉から筑前を与えられた時に立花城の支城であったここに城を築くことを命じらました。当時は海に囲まれた海城で、毛利に変事があったときの備えとも、九州鎮撫の拠点ともいわれています。朝鮮出兵の際には、秀吉も淀君とともに宿泊しています。
小早川隆景の養子ご存知小早川秀秋が関ヶ原の戦功で備前に移ったあとは、黒田長政が入城するわけですが、手狭だったため福岡城を築き移転します。その際に名島城の石垣やら門やらはほとんどすべて福岡城等に移されます。これを名島引けといいます。福岡市民の方は舞鶴公園に大きな門があるのをご存知でしょう。あれも名島門といって名島城にあったものです。
確かに石垣もないやら、周囲も埋め立てがないやら名残がないと言われてましたが、海はホント近いし、思ったよりも遺構が残っているそうで、名残を感じることができます。なによりのどかで気持ちいい場所ですね。

今は名島神社になっている。
城址は小ぶりの公園。海もみえる。

承天寺・聖福寺(博多区博多駅前)

承天寺と聖福寺をセットにするのは大変もったいない話なのですが、同じ博多旧市街区にあります。
承天寺は聖一国師を招いて少弐氏が建立。謝国明が施主になった禅寺で、うどんと饅頭の発祥の地として有名。近現代になって無秩序な都市計画によって縦断する道路ができたのですが、高島市政になって道路を歴史街道風に整備、入口に千年門という門を建てて観光客誘致に努めたのですがうーん、どうかな。
聖福寺は栄西が建立した日本初の禅寺とも言われております。広田弘毅や中野正剛など玄洋社の方々の菩提寺でもあるようです。博多駅前という身も蓋もない地名なのですが、もう少し市民に知られるといいですね。

千年門。観光スポットのゲートウェイとして2016年に建てられた。


承天寺。


聖福寺。

香椎宮(東区)

全然渋くない。由緒正しい香椎宮。三韓征伐で知られる神功皇后と、ヤマトタケルの子・仲哀天皇の夫婦の廟といわれています。現在は夫婦の宮とされていますが、神託を無視して亡くなってしまった仲哀天皇と、神託を守って出産を遅らせてまで三韓征伐を行なった神功皇后は仲が良かったのかしら。

香椎宮。桜がきれいでした。

筥崎宮(東区箱崎)

朝鮮半島を制圧したとされる神功皇后の逸話が福岡各地に残っていますが、その産んだ子供が応神天皇で、八幡神として神格化されています。八幡神を祀る八幡宮は全国各地にありますが、三大八幡宮が、元祖の宇佐八幡宮(大分県)、石清水八幡宮(京都)そしてこの筥崎八幡宮(福岡市)です。以来八幡宮は武士の拠り所にされてきました。
楼門にはなんと「敵国降伏」との穏やかならぬ文字が。元寇や朝鮮出兵などを経てきた福岡らしい雰囲気ですね。ソフトバンクホークスなどの選手も毎年参拝して必勝祈願します。

亀山上皇像、日蓮上人像(博多区東公園)

東公園に鎮座する亀山上皇と日蓮上人。バカでかい、どちらも元寇による日本滅亡を憂いた方で、戦前に戦勝を祈念して建てられた。亀山上皇の台座には「敵国降伏」とある。

亀山上皇像
日蓮上人像

板付遺跡(東区板付)

東区の住宅街にある。南北110メートルほどの環壕に囲まれたムラが復元されていて弥生時代を体感できる。大小のつぼや、現代と変わらぬ杵や臼など耕作用具も飾られてあって感心したなあ。竪穴式住居も再現してたよ。

旧高宮貝島家住宅(南区高宮)

筑豊の炭鉱王御三家は麻生家、安川家、貝島家ですが、このたび福岡市南区高宮の旧貝島宅が整備されました。高宮駅とほ数分にこんな緑豊かな文化財が開放されているなんて驚きです。しかし炭鉱王の宅地は規模が違いますね。広大な緑地に結婚式も開ける広大な邸宅。茶室まであって圧倒されました。旧邸宅前には高島市長の石碑もありました。市としては外国人の迎賓館としても活用したいようです。

旧高宮貝島家住宅。やはり規模が違いますね。
駅前なのに広大な敷地。

おわりに

福岡市民が福岡市の歴史を知らないという問題意識から本(「愛ゆえの福岡市」)まで書いてしまった私ですが、noterさんの旅行記を見ていて「もっと勉強してから来ればよかった」という落胆の声があって、市民として心苦しくてこういう記事を書いてみました。
福岡市は近年、歴史観光にも力を入れています。福岡県は史跡数2位、博多は日本一の歴史がある交易港だと思っています。一度はおいで。福岡。

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