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福岡城に天守閣はあった?なかった?

テレビの映像や雑誌のイラストなどで福岡市を表現する際、たいてい使われるのは、百道浜(ももちはま)に建つ福岡ドームと福岡タワー周辺だろう。あるいは大濠公園が映し出されることもあるかもしれない。百道浜は1986年に整備され、命名された新興ウォーターフロントで、確かにランドマークの所在地ではあるが、福岡市の西に寄りすぎているし、天神などの中心街からは離れている。大濠公園も同様である。
しかしながら福岡ドーム、福岡タワー、大濠公園は福岡のランドマークであり、市民にも愛されているのは間違いない。

ところで、福岡城は?福岡城址は舞鶴公園と呼ばれ、一角には桜や梅がたくさん植えられているため、春には大勢の花見客が訪れる。しかしまあ、それくらいである。未整備の石垣や石畳に囲まれ無案内になるし、夜なんて真っ暗で怖くて歩けない。花見の季節以外もイルミネーションなど様々なイベントを仕掛けているが、さっぱり定着しない。
若い市民からは「福岡城ってあるんですか?」と聞かれたりする。天神から15分も歩けばお堀と石垣が見えてくるというのに。
しかし、なぜ福岡城はかくも福岡市民に忘れられ、ランドマークからも外されているのかというと、「天守台に天守閣が建っていないから」という明白な理由に突き当たるのではないか。

天守台に天守閣が建っていない城は全国にたくさんある。江戸城天守台など代表的だ。東京でも行ったことのない人も多いのではないか。大和郡山城、佐賀城、萩城なども天守台の上に天守閣がない。私は大人になってからこそ天守閣がなくても趣深く思えるようになったが、子供のころは城に天守閣がないとがっかりしたものだ。福岡城も、見事な見晴らしの天守台はあるものの、天守閣はない。城好きの観光客などもそれで訪れないとなると、せっかくの観光資源が無駄になる。

福岡城に天守閣を建てようという運動は昔からある。しかし実現していないのは、そもそも天守閣なんてなかったという通説からだ。確かに1646年に作成された福岡城を描いた絵図『福博惣絵図』には天守閣は描かれていない。理由は、天守台がそもそも高いため見晴らしがよく天守閣がいらなかったからだとか、風が強すぎて倒壊の恐れがあるからとかいろいろな説があるが、幕府への遠慮から天守閣は造築されなかったというのがもっぱらの説である。
幕府への遠慮から天守閣が築かれなかったという城は、例えば平戸城など全国に見られる。そんな馬鹿なと思う人もいるかもしれないが、幕府に遠慮しないで立派な天守閣を作って幕府から改易の憂き目にあった大名も多い。例えば広島城の福島氏や熊本城の加藤氏などである。というわけで黒田長政も福岡城に天守閣を作らなかった、と言われてきた。


ところが近年になって、当時豊前国小倉藩主であった細川忠興が、三男の忠利へ宛てた1620年3月16日付の手紙に「黒田長政が幕府に配慮し天守を取り壊すと語った」と天守の存在を窺わせる記述が発見された。このことによって、天守閣の実在が取りざたされ、今や定説になりつつある。黒田長政は総行108万平方メートル、天守閣を含む47もの櫓の大城を作ってしまったばっかりに、徳川幕府から睨まれ、大坂冬の陣では黒田長政の参陣を拒否され、江戸拘留という屈辱を味わうことになった。そこで黒田長政は、天守閣や石垣を取り壊し、大坂への提供を幕府に申し出た、というのが定説のようだ。

いずれにせよ黒田長政は天守閣を作ったか、作ったにせよすぐに棄却してしまったというわけだ。この城を復元して観光資源としようという運動があるわけだが、どうだろうか。私個人としては、模擬城も全国にある以上、建ててもよいかと考えている。

前述したように、熊本城の加藤清正からも絶賛された堅城であったが、海に近すぎて海側からの攻撃に弱かった。そのため幕末の1865年、城郭の構造を持つ「犬鳴山御別館」が山間建てられ、黒田藩主を一時期ここに移そうという動きが出るが、それが黒田長溥の怒りを買い、「乙丑の獄」という志士弾圧の悲劇を生むことになる。

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