生き生きとした人生を生きる~村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス』~

「離人感」と自己療法のささやかな試み

症状の名前で片づけるのも味気ない気がするが、初期の村上春樹は「離人症」だったのだと思う。現実感が希薄で、生きているという実感が伴わない感覚。だから他者との隔絶に苦しみ、自己喪失に苦しむ。そもそも村上が小説を書き始めたのは「自己療養へのささやかな試み」が理由であった(少なくともデビュー作『風の歌を聴け』の冒頭で、主人公にそう宣言させている)。
『風の歌を聴け』から10年、39歳での小説『ダンス・ダンス・ダンス』でも、「誰をも真剣に愛せなくなってしまっていること。そういった心の震えを失ったこと」を、「羊男」とよばれる霊的存在に打ち明ける。そう、10年たっても「何処にもいけないこと。何処にもいかないままに年を取りつつつあること」に苦しんでいるのであった。

「誰をも真剣に愛せなくなった」ことは、しんどい。かのドストエフスキーも「真の地獄とは人を愛せないことだ」といった趣旨のことを言っている。人を愛せないから、人とつながれない。社会とつながれない。現実とつながれない。現実とつながれないから、生きてきたという蓄積が得られない。だから30代にもなって、自己が何たるかを語れず(「データが不足しているんだ」)、恋人とは違和感を埋められない(「月に戻りなさい、君」)。
『ダンス・ダンス・ダンス』では、羊男の助言によって、とにかく人生のステップを踏むことを助言される(「踊るんだよ、みんなが感心するくらいうまく」)そうして主人公は、出会った人間とのつながりをたどって、具体的にはキキという女の子の行方をたどって行動することになる。

ステップを踏んで現実性を回復

僕がこの小説が大好きな理由は、そのステップにおいて巻き起こる出来事や人物が、実にカラフルで、リアルで、生き生きしているところである。10代特有の複雑さを抱えた美少女のユキ、繊細で内気な女性のユミヨシさん、魅力的な青年であるゆえの苦しみを持つ二枚目俳優の五反田君、みんな魅力的で、なによりリアルである。彼らとのやり取りも楽しい。
生き生きしているということが、実はミソなのである。現実感を喪失し、自己を喪失している人間にとって、リアルで生き生きとした人間や出来事との交わりこそが、「現実性の回復をとおしての自己の回復」(村上)にとって大事なのである。
そうしてとにかくステップを踏み、現実を生き、そしてユミヨシさんという現実にたどり着く。ユミヨシさんとの交わりの時、主人公は「現実だ」と言う。

「やれやれ」で代表されるデタッチメントが作風だった村上春樹。彼は本当に「自己療法へのささやかな試み」が成功し、とにかくコミットメントに務めることで、現実感を取り戻すという結論を得たのかもしれない。そうだとすると、離人感に苦しみ人間にとっても、実に希望に満ちた作品だともいえる。
単純な小説としても、力強い推進力と、疾走感のある作品である。後期の方が技巧的かもしれないが、とても作家として乗りに乗った、充実した時期の作品だと思わせる。

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