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【読書】 海からの贈物 アン・モロウ・リンドパークパーク(随筆)

一人になること何かいけないことになっていて、そのためにお詫びをしたり、口実を設けたりして自分がしていることが恥ずかしいことであるようにそれを隠さなければならない我々の文明というのは、なんと奇妙なものではないだろうか。

「一人になることができなくなった世界」それは「一人でいる必要を認めない世界」ではないでしょうか。恋人がTwitterでつぶやいているのに、ラインを返してくれない。Instagramの投稿で、自分のしていることが筒抜けになっている。といった話を友人からよく聞きます。本来なら自分と相手(または別の他人)で完結する関係に、大勢の人が参入してくる。他人に開かれた自分。そのようにして、ぼくたちは「一人」を失った・・そう言えるのかもしれません。

 本書は昭和42年(1967年)、今から50年も前にアメリカの著者によって書かれた本です。当時はインターネットの普及が始ったものの、スマートホンなどない時代。一人の女性が見つめた、世界の有り様に感想と考察を記したいと思います。

概要

1900年代のアメリカのニューヨーク郊外で、著者は夫と5人の子供と暮らしていた。アメリカという先進国で女性の自由と権利が、数多の運動によってようやく認められた時代である。
 主婦でもあり、文筆家の著者は休暇で、人気のない島を訪れる。島での暮らしは、妻であること、母であること、その他、様々な世俗的 な役割から、彼女を開放してゆく。自由とは何か。他人と社会で生きる人間の自由について、浜辺に打ち寄せられた貝が彼女に物語っていた。

恩寵とともに

私自身と調和した状態でいたい。私は今言ったような義務や仕事に私の最善を尽くすために、ものをはっきり見て、邪念に悩まされず、私の生活の中心にある心に或るしっかりとした軸があることを望んでいる。-『恩寵とともに』ある状態で生きてゆきたい。

 人間が社会で生きていく中で、文明的な生活や、災害・動物からの安全を得る変わりに、家庭での役割をもち、社会的な役割を持たなければならなくなった。本当はただの一人の人間なのに、色々な関係性にがんじがらめになって生きている・・その事実に多くの人が疑問すら持たないでいる。しかし、それを完全に絶ったら、人の世では生きて行けくなる。そんな矛盾を抱えてぼくらは生きているのではいでしょうか。

ここと今

 「ここ」と「今」しかない時、子供、或いは聖者のような生き方をすることにより、毎日がそして自分がすることの一つ一つが時間と空間に洗われた島であって、どれもが島も同様に、それだけで充足した性格を帯びるーその中で、他人の孤独を尊重してこれを犯そうとせず、別な1個の個人という奇跡を前にして自然に1歩後へ足を引く。

 「他人の孤独を尊重すること」それをできるのは「自分の孤独を尊重していること」もとい「自分の孤独が尊重されること」が可能になって初めてできるのことなのかもしれない。

 「個人という奇跡」生きている・存在しているという奇跡が、損なわれる世界。現代の世界は、著者の危惧した通りの世界になっているのではないかと思います。つまり「他人の孤独を尊重できない」世界だということです。主婦の方のように、否応なく「孤独」になることができない人だけでなく、その他の人までが「他人の孤独」に干渉でき、干渉される。

 自身を振り返っても、「一人は嫌だ」「一人はみっともない」「一人は寂しい」という考えに支配され生きていた時期がありました。おもに学校で市集団生活をしていたときに、それを頻繫に感じました。特定のだれかと一緒にいたいのではな、常に誰かしらと一緒に行動する。そこに、安心を感じていたような気がします。言わずもがな、「自分の孤独を尊重する」なんてことができなかったのです。

孤独への未知

我々は今日、一人になることを恐れる余りに、決して一人になることがなくなっている。

なにが恐ろしくて、一人なりたくないのか。それは、「一人にでいることへの無知や未知」が存在するからなのだと思います。「完全に一人になること」それがどれほど難しいことなのか。それを考えないではいられません。

ただそこにあるもの

それはただそこにあって、空間を満たしているだけなのである。ーそれに代わって聞こえてくる内的な音楽というものがなくて、私たちは今日、一人でいることをもう一度初めから覚えなおさなければならないのである。

 テレビを付ければ、何時でも人の話し声があり、スマホを開けば、いつでも誰とでもつながることができ、音楽も、映画も、芸術ですら、そばにある。しかし、それは「空間を満たしているだけ」ということに納得します。

 本当は一人になのに、一人でないと思い込む。だれかといるような感覚。それが自分を疲弊させる原因だと言うのに。

変化の中で生きている

初恋とか、友情の始まりとか、二人の人間の気持がそういうふうに最初に近寄りだしたときはーただそれだけで一つの完全な世界が出来上がっているような気がする。→相手と初めのうち結ばれていた関係は変って、世間との接触でもっと複雑な、もっと厄介なものになる。→(取り戻すには)それと同じ状況を再現することである。

 関係性は常に変化するものどと思います。親子であっても、友人であっても、恋人であっても。ずっと最初の関係のままでいることなんてできないことを著者は述べています。「付き合いだした頃はあんなにやさしかったのに」「初めはまともなひとだと思ったのに」と相手の変貌や、自分の変化に傷つくことがよくあります。それでも、ずっと同じ場所にいることなどできないのが人間なのだち思い知らされます。

奇跡とは

(関係の変化)は、伸びてゆく生命の絶え間がない奇跡の一部。凡て生きた関係は変化し、拡張しつつあって、常に新しい形を取っていかなければならない。

 望まずとも変化してゆく関係の中で、生きるぼくたちにとって大切なことは、「変化する」ことを絶えず自覚することなのかもしれません。だからこそ「今」が一番大切なのであって、「いま」と「過去」を比較すること自体に、無理があるのではないかと感じます。

瞬間

二つとないものなどなくて、二つとない瞬間があるだけ

 継続ではなく、断続的なもの。永遠ではなく一瞬。永遠なんて誰が知っているんだろうと疑問になります。永遠を生きた人などいないのだから。するとまた、「永遠の愛」なんてないのかもしれません。この、「今この瞬間」だけに生きていることが自覚出来れば、ぼくらは時間という概念に縛られることなく生きていけるのでしょうか。

我々は皆、一人だけ愛されたい。

 自分の愛するひとが、自分を愛してくれるように、他の人も愛していたら・・。嫌な気持ちになってしまいます。他の誰よりも、自分だけが愛されたい。そんなことは不可能だと分かっていても、求め続けてしまう。

まとめ

 前半は孤独について、後半は関係について書かれていました。人間の幻想が人間を苦しめている。そのことを示唆する文章で溢れています。永遠・かわらないもの。それらは本当は存在しないのに、求め続けてしまう。それを求めさせようとする「何か」が社会にはあるのではないかと考えました。

 一人の人間としてよりよく生きていこうと思ったとき、このような幻想から離れて、見つめなければならない。逆に言えば、世界は一人の人間がよりよく生きて行こうとするようにはできていないのかもしれません。 

 自分全体が受け入れられ、幾つかの役割の集まりではなしに、一個の個人として扱われること。

 そのためにこそ、自分一人を充実させる必要があるのだということ。自分一人を充実させることができてはじめて「相手に与える影ことができる」のだということ。誰とでも繋がれる(ように見える)現代だからこそ、考えなければならないことに溢れた一冊でした。




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