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【短編小説】次の駅で②

 鈴木弓子は取り出しかけていた文庫本をバッグに押し戻すと、扉の向こうで、まだ驚きを隠せない平戸陽太に会釈を送った。
 

 彼女の落ち着いた様子を見て、彼もまた会釈を返す。

二人を隔てている約1メートルの連結部分の幅は、平戸さんと周囲の間にある見えない壁によく似ているーそう思うと彼女はしまったスマートフォンを取り出した。
 

 「私の車両にはまだ余裕があります。こちらへ来ませんか?このままというのも、どこか落ち着かないので」
 

 オフイスビルの1階に入っているカフェチェーンで話をしていた30分前とは打って変わった、気の緩んだ彼の顔が彼女には意外だった。

 社内の砕けた雰囲気には飲まれず、かといって硬いわけではない、丁寧な人柄。けど私生活ではまたちょっと違うのかな?―と考えつつメールを送ると彼が「了解です」の意を示すように軽く会釈をして、車両を移ってきた。
 

「先ほどは、お誘いのメールありがとうございます。忙しい身分でもないのですが、友人と久々に食事をする予定が入っていたもので」
 

「いえいえ、こちらからお誘いするのに、日程も場所も人任せ、というわけには行かないので。厚かましく曜日をお伝えしたのはそんな理由からなんです」
 

「なんだか、鈴木さんの営業成績が評判になっているのが分かった気がします。会話していても、尖ったところも含んだところもない。僕も見習わなければ」
 

 そういうところが……。私には眩く見える。卑屈になるわけでもなく、上から見下ろすような上司ぶりもない。

 ただただ目の前の人を純粋に見てくれる。なのに、なぜうっすらとした距離を感じてしまうのだろう。

 「迷惑でなかったら嬉しい限りです。あの……。通勤中はいつも何をなさっているんですか?」

  食事に誘ったのも、この人の人柄をもっと知りたいという気持ちからだった。

 彼の人との距離の取り方は独特なところがあって、プライベートな部分は、同僚でさえ知らない、というより誰も関心を持っていない。

 「いや……。大抵は本を読んでいます。ただ、通勤中はこんな風にいつも混むので、席に付けないときも読んでいるとは限らないです……。」
 

 自分のこととなると途端にしどろもどろになる―少しだけ意外な印象を受けた。
 

「そうですよね。こう混んでいると読書もはかどらないですよね……。」
 

「現在神奈川新町で人身事故が発生しております。再開の目途は立っておりません。乗客の皆様にはご迷惑をおかけします」

 

 アナウンスに遮られ、危うく失礼になりそうな質問をしてしまうのに耐えることができた。

 「どんな本を読んでいるか」は、その人の趣味嗜好をさらけ出すのと同様だ。人によってはとてもデリケートな部分なのだと彼女は思い直した。


「鈴木さんは、通勤中何をなさっているんですか」

「私も平戸さんと似ているかもしれません。読書をしたり、外の景色を眺めていたり……。でも、連結部分はいいです。もみくちゃにされないのでゆっくりと読めます」

 イレギュラーなことが立て続けに起こって私も緊張していたのかもしれない。どうでもいい情報まで披露してしまった。

「連結部分。確かにいいですね。気づかなかったな……。」

 驚いて微笑む彼の自然な笑顔を見て、赤くなりかけていた頬が緩んでいくのを感じた。薄い壁も消えている。
 

 「あの……。よければこれから夕食に行きませんか。次の駅にゆったりとくつろげるお店があるんです」

  
 頭に浮かんだ言葉が耳に飛び込んできたのでびっくりして彼の顔を見ると、口に出した本人が一番驚いているかのような、きょとんとした瞳が彼女の目の前にあった。

 
 沈みかけた夕日が、そんな二人の横顔を照らしていた。

 2020年6月17日 『次の駅で』  taiti


                                                                                                                   (続く)

 

 

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