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クリエイティブと暮らす。小説になった「母への手紙」

小説家 九綱真寿実

今から8年ほど前のこと。一人暮らしの母に認知症の疑いが出ました。 長らく持病を抱え、日常生活も次第に覚束なくなっている母と向き合ううち、やがて待ち受ける「死」を、酷く恐れていることに気が付きました。

「ねぇ。私、どうしたらいい?」
電話口で繰り返し嘆く母に、私は返す言葉が見つかりません。 しばらく経ち、私は母を励ますつもりで手紙を書きはじめました。ところが、書き進めるうちに手紙でなくなりました。これがやがて、小説「占子の兎しめこのうさぎ」の原点になります。

こんなふうに言うと、じつに愛情に充ちた、理想的な母娘関係のように思われるかもしれませんが、全くもって違います。母のことが許せなかった私は、もう何年も実家に帰っていませんでした。

遡れば、私が8歳、弟が3歳のとき。父は居なくなりました。
他に好きな女の人が出来た父は、新生活に必要な家具を揃えるため、その人と二人で買い物に行ったのでしょう。家に配達日時を知らせる電話が掛かってきたことで母が激怒。そのまま、離婚の運びとなりました。母は私と弟を連れて地元に戻り、祖母と一緒に暮らし始めます。

それからというものの、母は口を開けば父や職場の人の悪口ばかり。
「いつまでこんな暮らしが続くのか」
と、嘆きます。そして
「もう働きたくない。あんな底辺会社、もう行きたくない!明日から行かない。辞めてやる!」
と、私や祖母に当たり散らします。祖母も気短で言葉遣いの粗い人でしたから、
「そんなん言って。おまえどうやって、子ども等を食わす気だ!」
と、母を怒鳴りつけ、毎日が喧嘩です。
けれども、子どもだった私には、この状況こそが『世界のすべて』です。
家族は喧嘩するのが当たり前だし、母は誰よりも可哀相な人なのだと信じて疑いませんでした。
「家のことは言っちゃだめ。みんなと同じにしなきゃだめ。馬鹿にされるから。お父さんは、外国で働いてるって、言うんだよ」
私も弟も、母の言いつけを守りました。世界でいちばん可哀相な母なのです。

決して心配はかけまい、辛い思いはさせまいと心に誓い、私は、母の愚痴や泣き言に耳を傾け、懸命になぐさめました。
私の空想癖は多分、このプレッシャーからの無意識的な逃避だったのでしょう。学校では、「いつも、ぼーっとしている」「他人の話を聞いていない」等、よく先生に叱られました。

成長にするにつれ、私は、塞ぎ込むことが多くなりました。
学校でも、なぜか周囲に馴染めず、孤立していきました。
「同級生たちは、みんな生き生きして楽しそうなのに。どうして私は、あんなふうに振舞えないのだろう」

あるとき、たまたま流れていたテレビ番組で、離婚についての特集が組まれていました。
たしか、昼の時間帯のワイドショーだったと思います。視聴者からの電話相談に番組のコメンテーターが順次答えるといった内容です。
そこに、最近、幼い子どもを連れて離婚したという相談者が現れました。
「どんなに憎んで別れたとしても、元夫の悪口は、決して子どもには言わないで」
「自分の体の半分には悪い父親の血が流れている。そういう意識を植え付けられた子どもは、やがて自分自身を責めてしまうから」
相談者に対し、コメンテーターのひとりがそのように窘めるたしなめるのを聞いて、私は、心が瞬く間に凍り付くのを感じました。すると、
「えぇ、なんで? 普通言うよね、悪口。子どもに言わないで誰に言うのよ」 まったく理解できないといった様子で、テレビの画面を見つめています。祖母も同じです。
「子どもにゃ、悪いことは悪いと言いきかせにゃ駄目だに。親父おやじみてぇな馬鹿っつらにならぁ!」
祖母は、テレビ画面に向かって吐き捨てるように言いました。

このとき、私のなかで、何かが壊れる音がしました。

本当は、すでに壊れていたのかもしれません。
両親が離婚して間もなく。母は私に、父の映っている写真をすべてアルバムから引き剝がし、鋏で細かく切り刻むことを要求しました。切り刻んだ後は、庭の焚火で母と一緒に燃やしました。
母は、幼子のように声を上げて泣いていました。
あのとき私は、父の写真とともに、自分の半身をも切り刻んで焼いてしまったのです。
印画紙の焼ける、あの独特な匂いを、五十年近く経った今でもはっきりと思い出せます。

私は、母のような人間には絶対になるまい。と、心に誓いました。
まずは、母の愚痴聴き役、なぐさめ役を放棄しました。それによって母はさらに攻撃的に、ヒステリックになりましたが、はらを据えて挑みました。自分にも母にも、負けたくなかったからです。
そのうち母は、泣き落としで担任の先生にけしかけ、学年主任や校長までをも巻き込み、私を捻じ伏せに掛かりました。このときには、
「あんたが捻じ伏せるべきは、アタシじゃないだろう」
と、怒りがほとばしり、体の震えが止まりませんでした。
こうして幾つもの紆余曲折があり、試行錯誤を繰り返しながら、私は母から、じりじりと距離を取りました。同じ家に居るのですから、本当に苦しかった。
高校を卒業すると間もなく、祖母が亡くなります。正直に言うと、悲しくはありませんでした。 むしろ、葬式で久しぶりに従姉妹たちに会えて、うれしいくらいでした。
母も幾らか解放されたのでしょうか。この頃から、言動が多少穏やかになります。

私にも友達ができ、少しずつ人間関係が拡がって、ようやく「まともな人間」になりつつありました。 やがて、アルバイト先で知り合った同い年のNちゃんと仲良くなります。
なんと、Nちゃんの口癖は、「しあわせ」。それだけではありません。
「かわいい」「きれい」「素敵」「似合う」など、他の人への褒め言葉も、まるで呼吸をするかのように自然に出てくるのですから、誰からも好かれます。Nちゃんと一緒にいると、私にも何故か次々と良いことが起こります。私は迷わず、Nちゃんをロールモデルに選びました。

ある年に届いた母からの年賀状です。年頭の挨拶に添えて、
「良いことばかり云わないで、たまには愚痴もこぼしてください」
と、ありました。
「やっぱり相変わらずだなぁ…」
と、思わず苦笑しました。
そのとき、私は既に結婚していて地元を離れていたので、母との関係にも、ある程度の折り合いがついていました。
「母親だと思うから、いちいち腹が立つ。縁あって面倒をみてくれた知り合いの小母おばさんだと思えば、大方のことは受け流せる」
母は、淋しかったのでしょう。けれども、他人を使って自分の淋しさを埋め合わせようとするのは、違います。母娘とは言え他人同士なのです。関係に甘えて傷を舐めあうような、下らない真似事は、もう沢山です。私も大人になりました。
他人に愚痴など溢さずとも自分を癒す方法は、世界には山ほどあることを知っています。
何を選んだって構わない。母の時代とは違うのです。
私は私らしく、自分の道を進みます。

嫌な相手のことが、気になって仕方がない。頭から離れない。ムカ付く。けしからん!
そういう時は、自分もまた、相手と同じ「世界リング」のなかにいるのです。
嫌な相手に本気で勝ちたいのなら、「戦わないこと」です。
たとえゴングが鳴っても、ここぞとばかりに相手が煽ってきたとしても、黙ってその場を立ち去る。リングから降りることです。戦わずして勝つことこそが最強であると、古人いにしえびとも言っています。
また、「幸福に暮らすことは、最大の復讐である」という諺が、スペインにはあるそうです。
本当に父を憎むなら、母は幸福に生きることに全身全霊を注ぐべきでした。しかしながら、延々と自身を憐れみ、生涯を懸けてまで不幸を体現した母は、お陰様で、私にとって最高の「反面教師」になりました。なまじ半端に出来た親であったならば私は、自身を変える努力もせず、小説を書くこともなかったかもしれません。

つい、調子に乗って散々に書き上げましたが、詰まるところ母は、
「不測の事態に、ずっと対処できなかった人」なのだと思います。

離婚が決まると、伯父伯母たちは母に、美容師の資格を取ることを勧めました。母は若い頃から、おしゃれをするのが好きでしたし、女性が経済的に自立するための手段は、まだまだ限られていた時代です。
「今なら皆で金を出し合って、おまえを学校に通わせてやることもできる。子ども達が大きくなれば学費も掛かるし、各々それぞれ家のローンだってある。そうなれば援助は難しくなる。決めるなら今だぞ」
という、伯父伯母からの申し出を、理由は分かりませんが母は何度か断っています。
ところが、中年以降になると、美容師免許を取らなかったことを酷く悔やんでいました。 チャンスの神様は前髪しかなかった時代の話ですから、無理もないのでしょう。

『学校を出たらOLさんになって、日曜日には流行りの服を着て、美容室で髪をセットしたら、デパートに行って新しい口紅を買って、そのあと、裕次郎の映画でも観に行きましょうよ!
でも、「売れ残りのクリスマスケーキ」なんて言われないように、24歳までには結婚しなきゃ。
だけど、お見合いなんて時代遅れじゃない? 私は断然、恋愛結婚。
職場に二つ年上の、かっこいい彼氏がいるの。オートバイ持ってるし、ギターも弾けるの。
「アルハンブラの想い出」とか、すごく上手なの。結婚したら子供は二人。男の子と女の子。
仕事?そんなの、寿退社にきまってるじゃない。ニュータウンに家を買って、三種の神器を揃えて、車も買って、週末は家族で外食して…』

そうやって、何もかもを揃えることが「幸福」なのだろうと信じて疑わなかった。
みんなと「同じ」がいい。できればみんなより、ちょっと「上」がいい。
だけど、信じていたものがなくなった。みんなと「同じ」でなくなった。
何もかもが「おしまい」になった。 父と別れたとき、母は33歳でした。

そんな母も、一昨年前から地元の施設で暮らしています。
スタッフの皆さん、看護師さんに見守られながら、穏やかに日々を過ごしているようです。

何人たりとも「死」を逃れることはできません。
母が死ぬことを怖がらないで済むよう、また、私自身も人生を悔いなく全うできるよう、 想いを込めて書いた「占子の兎しめこのうさぎ」は、私から母への冥土のはなむけです。

しかしながら、私の小説を母が読むことはないでしょう。それでも良いのです。
想いを込めた作品は、その想いを汲む誰かのもとに必ず届きます。

もしかしたら母は、私が「小説を書く」という人生の課題に全力で取り組めるよう、生涯を懸けて、反面教師としての「お役目」を果たしてくれていたのかもしれませんね。

「ありがとう、お疲れ様。もうすぐ神様が切符をくれるよ。そうしたら、故郷ほしに還ろう」


九綱真寿実

静岡県出身、神奈川県在住。 母子家庭で育つ。
地元の高校を卒業後、アルバイトを含め様々な職業を経験する。 幼少期から空想壁はあるものの、読書とは縁がなく、 子育てを機に、絵本や童話、児童文学に触れ、 物語の素晴らしさに目覚める。
電子書籍にて小説『占子の兎』を上梓。 現在、新作執筆中。
九綱真寿実 Website (https://kutsunamasumi.com/kutsuna-masumi2023)