平成最後と令和最初

今日は令和元年5月1日。どうやら令和1年とは言わないらしい。

昨日はテレビ番組で特番がびっしりとつまりInstagramでは「平成最後だから一言」みたいなストーリーが飽きるほど目にとまり、渋谷のスクランブル交差点には若者でごった返していたらしい。昨年から沢山の媒体で「平成最後の〇〇」と見てきたため、流行に乗って使いたいのだろう。

僕は平成最後という言葉が嫌いだ。さらにとんでもないことを言うのかもしれないが、正直僕は全く興味がない。平成が終わって令和になると何が変わるのだろうか。別に国の方針が変わるわけでもないし、何も新しいことは始まらない。多分そう思うのは僕がまだ高校生で考えが未熟だからということは十分にある。だからこそ何も考えていなさそうな承認欲求にまみれた同世代や大人にもなって馬鹿みたいに交差点で騒ぐ人を見ると本当に不快に感じてしまう。何も考えないで行動するのは寝るときか自慰行為をするときだけでいいと思う。

どうして僕たちはこうも考えることを忘れてしまったのだろう。この前授業中に制服のボタンを見てボーっとしているクラスメイトがいて先生が怒鳴っていた。すると彼は
「すいません」
と言った。本当はすみませんだろ!なんて思っていると先生は、
「誰に対して謝っているんだ」
と言った。確かに。僕は誰かから怒られた時、とりあえず「すみません」と言っている。その時僕は誰に謝っているかなんて考えていない。その場をくぐり抜けたいだけだった。

そう考えると高2の夏の留学時にカンニングして書いた反省文はただの作業でしかない。とても無駄な時間にしてしまったことを今でも後悔している(そもそもカンニングするな)。しかし彼らのように考えないということすらも忘れてしまったら本当にどうしようもない。


これから世の中は「令和最初の〇〇」と言って特に何も変わらないのに特別感を味わうために若者はお金を出してしまうだろう。僕はそんな人間に絶対になりたくない。どこか一つだけでも曲げない何かを持っていたい。


そんな僕は平成最後と令和最初が切り替わる時間に映画館のレイトショーで2回目のアベンジャーズ・エンドゲームを見て涙が止まらなかった。
 

                2019.5.1

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