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文学こそ、ことばなれ

国語は文学か語学か、などという「議論」が交わされたことがあります。このとき、国語の教師であれば、まずは「国語」「文学」「語学」がいったい何を指しているのか、という定義を明らかにしようとします。明確な定義が確立できないとしても、当面の議論に支障を来さないようにとりあえずの定義を共有しようとします。この手順を経ないで議論に参加する国語教師はいません。

さて、その文学ですが、文学もまたことばで紡ぎ出されるものである、という紛れもない事実があることを忘れるわけにはいきません。作者が伝えたいことをことば、それも巧みなことば遣いで構築していくのが文学です。文学を理解するには、まずが語を理解し、句を理解し、文を理解した後に文章として理解したあとで、いわゆる言外の意味を加味して解釈や鑑賞といった次元に到達します。文学を文学として切り離して考える人たちは文学の実践における言語表現・言語理解としての側面を完全にスルーしているのです。

欧米では、実用的な言語技術を養成するカリキュラムのなかで文学作品が教材化されることもめずらしいことではありません。進学実績のある高校の先生の中にも現代文の授業で詩や小説を十分に取り上げていることもしばしばです。そうした高校の生徒も塾や予備校に通っているのかもしれませんが、文学を通じた深いことばの学びから基礎学力を得た結果、予備校の最上位クラスに籍を置くことが可能となっているのもまた事実です。

文学を生み出す作者というのは、その言語の母語話者の中でも最高峰の言語能力・言語技術・言語感覚を持つ人たちです。そうした人たちがメッセージを構築するために駆使したことばに触れることは、極めて上質なの言語学習であるともいえます。これを「文学という特殊なもの」として排除してしまうのは、あまりにももったいないと思うのです。

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