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英文法学習今昔

今回は昔と今を比べて、というお話です。

よく、昔は文法をしっかり学んで訳読をやったが、今はそれをやらなくなった、と言われます。確かに高校の教科書で文法項目ごとに章立てしているものが少なくなりましたから、少なくとも高校の教室で文法をやらなくなったというのはひとつの傾向として言えるかもしれません。訳読に関しては、文章の理解を和訳以外の手段で確認する方法が試みられてきた結果、訳すことが少なくなってきたというのは確かでしょう。

しかし、文法授業の「量」は少なくなってはいるものの、「質」は向上しているといえます。もちろんすべての学校のすべての先生によるすべての授業に当てはまるとはいえませんが、傾向としてはあると思います。また訳読ですが、学力や教室規律といった諸条件のもとで日本語に置き換えることが精一杯という授業も現実にはあります。教材のレベルが高すぎるという批判もあるのでしょうが、塾や予備校ならともかく、高校では検定教科書を使用しなければなりませんから、易しい教材にも限度があります。

公教育の外に目を向けると、「受験英語」の核として昔から文法が重点的に教えられていますし、訳読の授業もあります。しかし、文法授業の質は玉石混淆です。ひとことで言えば、良くも悪くも昔とは違います。昔のままの文法授業ではダメだという共通の認識はあります。しかしその具体的な手法に問題があります。正確さを追求しすぎて学びにくくなっている授業、わかりやすさを追求しすぎて正確さが犠牲になっている授業がその典型です。細かすぎる授業と粗すぎる授業と言ってもよいでしょう。理想は両者を統合するような、まずは大枠をつかんで、使っていくうちに細かな正確な知識に迫っていくというものです。訳読のほうはこの20年くらいは変わっていないといえます。1980年代から1990年代にかけて出てきた英文解釈法に基づいているからです。

受験英語ということで学参も見てみましょう。こちらは新しい参考書のほうが優れていると言いたいところですが、先ほど述べたようにわかりやすさを重視して正確さを犠牲にしているものが学参にもあり、しかも増加傾向にあります。逆に古くても優れた研究者が高校生のために書き下ろした参考書の中には名著と言われるものもあります。ただし、そうした参考書の多くは早くに絶版となり、私も手に取ったことがないものもあります(この辺りのお話は絶版参考書にも精通している先生や、英語教育史がご専門の先生から伺ったお話に基づいて述べさせてもらいました)。

塾・予備校選びも、参考書選びも、なかなか難しい時代になってきました。アカデミックな感じがするけれども実は学ぶ人のことをまったく考えていないもの、とっつきやすそうだけれども何となく胡散臭いもの。これらが受験の世界にはたくさんあります。受験というのは別に大学受験や高校受験だけではなく、TOEICや英検対策でも同じことが言えます。(TOEFLやIELTSなどでは比較的良質な講座や学習書が多いように思います)そうした状況で私もよりよい学びの場が創造できるように精進している次第です。

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