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ケミカル本、ケミカルから脱する

 友人から本をもらいました。何でも、偉い先生の講演を聞きに行ったようで、その講演者が書いた本なんだそうです。ページ数はそこまでではないんですが、内容がとにかく専門用語の羅列でございまして、一見すると、いや百見したところで何が書かれているのかよく分からないんです。表とかグラフとか画像とかもたくさんあるんですけれども、これもまた同様に分からない。きちんとした日本語で書かれているはずなんですが、特殊部隊が作った暗号文を読んでいる気分です。

 それよりも何よりも気になるのがにおいです。もうすごくにおうんです。普通、本のにおいと言えばインクと紙のにおいですし、古本だったらカビやほこりに似たにおいを発する時があります。しかし、今回もらった本のにおいはそのどちらでもありません。強いて言うなれば薬品のような、とにかくケミカルなにおいです。

 そんなにおいのする本は初めてです。どこで何をすれば本にケミカルなにおいがつくのか。友人に尋ねても「気づいたらこうだった」の一点張りです。友人からは別にケミカルなにおいがしないことを考えると、友人が本を手に入した時点で既にケミカルな状態だった可能性も考えられます。いずれにしろレアな現象です。

 とりあえず、ケミカル本はいいにおいではありませんが、嗅いだり吸ったりしても気分が悪くなるようなことがないため、毒ではなさそうです。本当は遅効性の毒で、部屋に置いといたらじわじわと命を削り取っていくというパターンもありますけれども、いずれにしろ「友人を何だと思ってるんだ」という批判が出てしかるべき疑心暗鬼ですね。失礼しました。

 もらった本は本棚に入れまして、いつか私の頭がもっと良くなったら読もうと思っていたんです。幸いなことにケミカルなにおいには射程距離があるらしく、20センチも離れればノーケミカルで生活できます。もちろん、遅効性の毒でもなかったようで、私は何の支障もなく生活していたのですが、やっぱり気になるわけです。例の本はまだケミカルなのかと。

 臭いものほどまたにおいを嗅ぎたくなるとは言いますが、ケミカルのにおいもまた同様なんでしょう。ケミカル本を棚から出してにおいを嗅ぐと相変わらずのケミカルです。本に染みついたケミカル臭はなかなか根が深いようです。

 そこで私はふと気づきました。隣の本ににおいがうつっていないかと。嫌な予感がして隣の本のにおいを嗅ぐと案の定、バッチリとケミカル臭を発していました。これはまずい、私の本棚にケミカル注意報が発令されたも同然です。

 「これはまずい」。その時は本当にそう思ったんです。でも、そのうちケミカル本のことなんてスッカリ忘れてしまったんです。そこそこ慌てたはずなのに、どうしてそう綺麗さっぱり忘れられるのか自分でもよく分かりませんけれども、その間もきっとケミカル本はケミカルなにおいを着実に拡大させていったはずなんです。

 実は、この文章を書くにあたって久しぶりにケミカル本を取り出したんです。もらった時から数えてもう5年の月日が経っていました。あれから知力が上がっている感覚はゼロです。本を開くとあの頃と同じように内容が理解できません。私の感覚は正しかったようです。

 しかし、においがないんです。あれだけ濃厚なケミカル臭を発していたはずなのに、本のそばでどれだけ鼻呼吸をしようと一切のケミカル臭がしないんです。5年の間にケミカル本はにおいを空気中に放出したり隣の本にうつしたりしながら自身に貯め込んだケミカル臭物質を吐き出し、すっかり普通の本になっていたんです。

 本にとっては進化なのか退化なのかは分かりませんが、とりあえず身構えずに読めるようになって何よりです。元ケミカル本を読めるようになるためには、あとは私の知能が本に見合うレベルまで上がるのを待つだけですね。当然ながら、そちらのほうが困難な道のりでございます。

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