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知性が必要なお笑いとは何か

 ここ数十年でお笑い芸人の地位は上がったとされています。幅広く仕事をするようになりましたし、芸人の数も質も向上してきました。近年では芸人の養成所も多く設立され、毎年のように芸人志望者が入所してきます。昔に比べて多くの人から憧れられる職業になった。地位が上がったと見て問題ないでしょう。

 芸人の地位が上がれば彼らが自分の意見を主張する機会は増えますし、それが世間の耳目を集めるようにもなります。中でもしばしば出てくる主張のひとつが「お笑いの難しさ」です。「笑いを取るのって大変なんすよ」ということですね。もちろん、難しいと思いますし、大変だと思います。ただ、そういう主張はお笑いに崇高さを与えると申しますか、お笑いが何だか立派なものであるとの印象を持たせる可能性がある。それによって観客が笑いづらくなるからと、その手のお話を避ける芸人もいるようです。

 そんな「お笑いってムズイんすよ」的主張の中に、時々こういうものを見かけます。「お笑いは実は知的なものである」「お笑いを理解するには知性が要る」。果たして、本当なのでしょうか。披露している側はともかく、それを楽しむ観客にも知性がいるのか。単純に気になりました。

 何かを見て笑うというのは大抵、瞬間的なものです。面白いものを見ると間髪入れず笑う。もちろん、よく考えたら笑えるもの、すなわち「考えオチ」が存在しますけれども、一般的な笑いどころが「オチ」と呼ばれている点から考えても、「考えオチ」は比較的珍しいタイプの笑いとして扱われているようです。つまり、本流はやっぱり面白いものを見聞きした瞬間に笑うタイプということになる。その過程に知的なものが介在しているのでしょうか。

 知識は要る。まずこれは確実だと思います。もちろん、観ている側は知識を活用して笑いを楽しんでいるつもりはないでしょう。しかし、無意識のうちに自分の中の知識を活用し、笑いに繋げているはずです。

 別段、難しい話ではございません。例えば、コンビニのコントを観たとします。すると観客は瞬間的にコンビニの知識を使っているはずなんです。どんな店構えで、何を売っていて、どこにレジがあって、という風にコンビニの知識を総動員している。そして、店員がありえない言動をする、つまりコンビニの常識から外れるところで笑ったりできる。逆にコンビニを知らない人がコンビニコント見ても面白さが理解できないどころか、場合によっては何をしているかも分からないかもしれません。芸人がネタをする時、観客はネタの内容に関連した知識を無意識のうちに思い起こし、ネタと知識を照らし合わせておかしな部分を笑ったりしている。

 ただし、当然ながらネタによって必要な知識が異なります。質も量も異なってくるでしょう。では、他よりも知識が必要になるネタは知的なネタと言えるのでしょうか。

 少なくとも、特別な知識が必要とされるネタは主に高学歴に属する方がされる傾向にあり、それはプロからアマチュアまで共通しています。例えば、ネタ中にかなりの教養を必要とする単語を使う。私がとある有名大学の文化祭でお笑いライブを見た時もそうでした。学生芸人たちは大学の数学科にでも行かない限り出会わないような数学の専門用語だったり、哲学をみっちり勉強しないと意味が分からない弁証法の言葉だったり、覚えてもらうことを拒否しているとしか思えない長さの化学物質名だったりをしばしば使うんです。そして、そういうボケやツッコミが結構ウケるんです。観客の多くは演者と同じ、高学歴とされる学生であり、「さすが秀才の集まる大学はお笑いも知性にあふれている」と褒めてしまいそうになりますが、果たしてその認識はキチンと事実をとらえているのでしょうか。

 もちろん、コンビニよりも数学の専門用語のほうが、ちゃんと勉強しないと知り得ない知識です。場合によっては、ちゃんと勉強しても大半の人は理解できないかもしれない。だから、数学の専門用語なり弁証法の言葉なり謎の化学物質なりは、今も昔も限られた人にしか知られていない。

 しかし、限られた人にしか知られていない単語を用いるネタは知的なのでしょうか。他のネタより知性にあふれているのでしょうか。そもそも知的かどうかなんて、どう比較するのか。コンビニと数学だったら数学のほうが知的なのか。数学と哲学はどちらが知性を必要とするのか。考えれば考えるほど訳が分かりません。「知性を必要とするネタとは何なのか」という思考の樹海にハマってしまいそうです。

 ここで私、ひとりのピン芸人を思い出しました。大輪教授です。今はもう引退され、放送作家として活動されている方でございますが、ピン芸人時代は数学を用いたネタで知られていました。例えば、通学路の角で食パンをくわえた女子高生とぶつかる確率を数学的に求めるネタがございました。公的機関の報告書からデータを引用するなど、無駄にちゃんとした計算が笑いに繋がっていたと記憶しています。

 大輪教授はネタの性質上、数学の学会や国際会議へ営業に行っていたようです。そして、ご本人がおっしゃるには、そういうところのほうが普通のお笑いライブよりウケるんだそうです。客は数学者など数学に詳しい人、そして恐らく無類の数学好きばかりだったためと考えられます。

 一部の人にしか知らない理解できないネタを、理解できる人たちの前でやる。得意なところで勝負するのは戦略として正しいでしょう。ただ、ふと思いました。確かに、それは知的なネタを知的な観客の前でやっていると言えるのかもしれない。でも、それは言い方を変えればマニアックなネタをマニアックな観客の前でやっているのではないでしょうか。

 先ほども触れましたが、専門用語は性質上、ごく一部の人にしか知られていません。そんな言葉を用いたネタも当然、ごく一部の人にしか通じない可能性が高い。そして、往々にしてそういうネタは「ごく一部の人」にやたらウケたりするんです。マニアックな人は自分の詳しいジャンルに好意的ですし、「こんなものまでネタにしてくるのか」という感情が笑いに繋がるのではないかと勝手に思っています。その手のネタは少なくとも数十年前から存在しており、「密室芸」だの「内輪ネタ」だの「細かすぎて伝わらない」だの、名前を変えながら脈々と続いてきました。

 「どんなネタが知的で知性があるのか」みたいな話ですと、どうしても語る人の主観によるところが大きくなりますが、マニアックかどうかでしたら「世間がどれだけ知っているか」という割と客観的な指標が使えます。つまり、分かりやすい。そして、知性が要るとされるネタは往々にしてマニアックなんです。

 知性が要るかどうか。知的かどうか。そういう話だと、どうしてもややこしくなってしまいます。それよりもテーマがマニアックかどうかで判断した方が、理解しやすい分、スッキリするのではないかと私は思います。そして、知的なものは往々にしてマニアックである。そういうことなんじゃないかなあと、今のところ考えております。つまり、乱暴な図式ではありますが、「知性が必要なネタ」は「マニアックなネタ」だと言えるのかもしれません。

 今回は以上となります。ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

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