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不老不死くらいじゃ杞憂はなくならない

 人の心配は理屈ではないという事実を「取り越し苦労」によって知るわけです。あれが起きたらどうしよう、こうなったらどうしよう。いろいろ心配するんですが、多くは起こらない。じゃあ、安心していいのかと申しますと、なかなかそうはいきませんで、世の悲劇は大体不意打ちです。予想もつかないところから飛んでくる。だから、人は心配せずにはいられない。

 それでもやっぱりそれはいらん心配だぞ、と誰かは言います。もう昔からずっとです。中国では数千年前から「杞憂」なんて言葉でピシャリと言い切っています。杞憂とは杞の国の人が「空がいつか落ちてくるんじゃないか」と憂う話から来ている言葉ですね。もう、どんな現象からでも心配の種を拾っては大木になるまで育ててしまう、そんなタイプの人です。

 私も心配事が尽きない人間です。杞憂がプロ化したら間違いなく杞憂で飯を食っていたはず。それくらいのポテンシャルは持っています。その昔、学校で育てていたアサガオに「アサオ」というセンス皆無の名前をつけたところ、直後に浅尾さんという方が誘拐される事件が起き、自分がアサガオに名前をつけたせいじゃないかと心配になったほどです。自分でも何を書いているのか分からなくなりかけていますが、それくらい杞憂との付き合いが長いんです。

 さて、そんな杞憂マンの一番の心配事は死の類です。何かに乗車すれば事故の可能性がふと頭をよぎりますし、何かに乗車していない時でも大地震の可能性がふと頭をよぎります。他にも、あんなことやこんなことで命を落としたらどうしようとか、いろいろ思っては警戒するんです。

 それを解決するには不老不死という妄想中の妄想に頼るしかありません。死がなくなれば多くの心配事はなくなります。地震雷火事親父がセットで来ようが、平気な顔してずっと立ってられるわけです。

 と思ったんですが、別に心配事は死に限った話ではありませんし、死なないと分かっていても不安になることはいっぱいあります。実際、自分が死なないと分かっていてもホラー映画を見るのは怖いものです。

 それに長く生きるとなると、ずっと先の出来事まで憂えなければいけなくなります。例えば、「500年後に地球へデカめの隕石がやってくる」なんて調査結果が出たとして、普通の人なら「怖いけど、どっちにしろ死んでるし」と言えるわけですが、不老不死マンにとっては現実問題なわけです。「庭に落ちてこられたらどうしよう」「掃除とか大変そうだなあ」みたいに、具体的な心配をしなければいけない。

 杞憂のプロならその程度、余裕でやってのけるんでしょう。いやあ、杞憂で飯を食うのはなかなか大変そうですね。

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