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心の中の3歳児

 子供はうんこが大好きです。母は幼少期の私が同級生と一緒にうんこを連呼しながら下校している様子を見て衝撃を覚えたそうです。

 人は成長するにつれて「うんこの連呼はよくないんだ」と思うようになります。私もそうなりました。しかし、「三つ子の魂百まで」のことわざ通り、いくら大きくなっても油断すると私の心の中の3歳児が暴走するんです。

 最近もありました。思えば、いい大人がカチカチ山の話をしてる時点でいろいろと危なかったんだと思います。友人が私にこう聞いてきました。

「そう言えば、太宰治もカチカチ山の話を書いてるって知ってた?」
「いや、知らない。本家とどう違うの」
「狸が悪食なんだよね」
「なに、うんこ食ってんの」

 悪食と聞いて最初に思い浮かぶ単語なのか。友人の顔はそう言っているかのようでしたが違いました。いや、「悪食と聞いてまずうんこが思い浮かぶのかよ」とは言われましたが、それだけじゃなかったんです。

「一発で当てるなよ」

 私は極端な答えを観測気球的にあげて正解との距離を測ろうと思ったのですが、その観測気球が標的の中心を貫いてしまいました。もちろん、思いましたよ。「おいおい太宰も中身3歳児かよ」と。太宰治のカチカチうんこ山は「お伽草紙」に収録されていて、青空文庫でも読めるので、よろしければご確認ください。

 どこぞの太宰さんもそうでしたが、世間を見回していると、大人になっても心の中の3歳児が暴走する人が私以外にも結構いるのではないかと思うようになりました。例えば、Googleで「うんこ」と検索すると「うんこミュージアム」「株式会社うんこ」「うんこ学園」など、心の中の3歳児に負けた大人たちの墓碑銘がたくさん出てきます。

 どれを見ても感じるのは「宣言しちゃったからいいでしょ。うんこって宣言しちゃったんだからバンバンうんこを扱うよ」という清々しいまでの開き直りです。今こういうことを書いてる私みたいなものですね。冒頭でうんこって書いた事実を免罪符に、もう何度もうんことドバドバ書いている。

 そう言えば、大学時代に微生物学の講義を受けたんですが、講師である教授の専門が哺乳類の腸内細菌だったんです。

「要はうんこを分析する学問です」

 教授がそう言ってニヤリと笑ったが最後、うんこの連呼が止まらなくなりました。もうドバドバです。いい大人が心の中の3歳児負けた瞬間を目撃した、印象深い光景です。

 もともと子供はずっとうんこが好きですし、大人の心にはしばしば3歳児が残っている。ですから、これまでもこれからもうんこに関する製品は出続けるでしょう。そして、心の中の3歳児に負けた製作陣の妙な高揚感が製品からにじみ出るはずです。

 そう言えば、最近もこんな本を見つけました。

 「ウンチの経済学」という名前とは裏腹に、内容は環境経済学の観点からうんこの持続可能な、つまりサスティナブルな社会を実現するにはどうしたらいいのか考察してゆくという真面目なものになっています。

 でも、書店で見た時は正誤表が挟まっていました。心の中の3歳児に連敗している私としては、余計なことを考えてしまいます。仕事で堂々とうんこを扱える事態に心の中の3歳児が小躍りしてしまい、いろいろ表記を間違えてしまったのかなとか。

 この本の担当編集者の上司が私だったら、もちろん理由も聞かずに無罪放免にします。人類の責務だと思います。

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