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再会を待つ花

私の同級生達は、ドルにまつわる記憶をうっすら持っている。
兄や姉といっせんまちやー(駄菓子屋)に行って、ドルで支払った思い出。役場に勤めていたお父さんが、金色やオレンジ色のピカピカした硬貨を持って帰ってきた夜。もらったドル硬貨を持ってお菓子を買いに行ったらもう使えないと言われたこと。いつだったか、大人が家中をひっくり返してドルのお札や硬貨を探していたような覚え。
私は当時住んでいた団地の商店街近くで、100円玉より少し大きな銀色の、おそらく25セント硬貨を深い側溝に落としたという記憶がある。金属の格子の隙間から見えているのに拾えない。またお母さんに叱られると半泣きになっていた。あれは本当に起きたことなのだろうか? もしそうならば、1972年5月15日の沖縄返還(本土復帰)以前、4歳の誕生日前後の体験だ。

ちょうどその頃、不確かなドルの思い出とは違い、あれは現実だったとはっきり言える出来事があった。
あの日、なぜひとりで幼稚園から歩いて帰ることになったのだろう。いつもは、同じ階のお向かいのあっちゃんと一緒か、そうでなければ赤ちゃんだった弟を連れた母が迎えにきていたと思う。
団地に住む子供達のために公民館をカーテンで仕切った急ごしらえの幼稚園から、ドミノのように並び建つ棟の横を歩く見通しのいい数百メートルの道。その日はひとりだったので、いつもより道端やその周辺に咲いている花が目に留まりやすかったのだろう。「青紫の花」と呼んでいたルリハコべの花に混じって咲いていた初対面の花に気づいた。

クレヨンのだいだい色ともも色を混ぜたようなその花は、花びらが5枚で、ルリハコベよりちょっと大きかった。道から草はらへと踏み出して、近くにもっと生えていないかと探すと、どれもルリハコベと一緒に咲いていた。どんな葉っぱなのかを確かめようと、もさもさのルリハコベを手でかき分けても、なぜかその花の茎を見つけられなかった。

ふと、我に返る。どのぐらいこうしていたんだろう。早く帰らなきゃ。
その時、花一輪でも持って帰れば、両親のどちらかが調べてくれたかもしれないのだが、ささやかな寄り道がバレて叱られるのが怖かったのだと思う。
今度母と一緒の時に尋ねようと思っているうちに花の季節が終わり、また次の春に探すつもりが宜野湾に引っ越すことになった。忘れないでいよう。覚えていればいつか何の花かわかるはず。

・クレヨンのだいだい色にもも色を混ぜたような花色。
・花弁は5枚でルリハコベより少し大きい。
・ルリハコベに混ざって生えている。

4歳児(年中さん)の観察眼にしては、なかなかだ。
この特徴だけでも植物名にいきつくことは可能だろう。

しかし、私がしたのは花の記憶を忘れないでいることと、大学時代に沖縄の植物図鑑を確認したことだけだった。大学に6年もいて、研究室には3人の植物の先生がいて、特徴を話せば判明していたはずだ。なのに、私はそれをしなかった。何年かに一度記憶の引き出しを開き、少しずつ変質し黄ばんでいく思い出を取り出して「忘れてません」とスタンプを押してまた収めるという引き継ぎ作業を繰り返していただけだ。
いつからか、あの花の名前が判明することや、もう一度実物に出会うことよりも、あれっきりで名も知らぬ花の記憶を持ち続けているということの方が、重要になっていたのかもしれない。

そして、44年後の6月のある日。
(なんだっけ?あの花。青紫の。え・・・っと「ルリなんとか」っていう花)
ど忘れしてしまった植物名を思い出そうと、停留所でバスを待ちながら、スマホに「ルリ 春 咲く 花 草」などと入力して、なんとか「ルリハコベ」に行きついた。念のために画像検索もしてみた。出てきたいくつものルリ色の花の画像に混じって、ほぼ同じ形のオレンジ系の花の画像がある。拡大してみる。記事に飛んで確認する。最寄駅に向かうバスの座席で、突然44年前の謎の結末を受け止めたことがわかった。

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「アカバナルリハコベ 」

なんなの、この和名。「ルリ」に「アカ」色名が2つも入ってる。
アカバナのルリハコベ。ルリハコベの変種ともそうでないとも言われている。そうか。だから、4歳の私は「あの花の茎葉」を見つけることができなかったのだ。
帰宅してから、山と渓谷社の「日本の野草」でも確認してみた。
ルリハコベの欄の最後に「花が紅色のものをアカバナルリハコベという」と書いてあった。結婚を機にこの図鑑を手に入れてからすでに四半世紀オーバー。
あぁ、本当に、私は「忘れない」以外のことをしなかったのだ。

植物名が判明し、残ったのは実物との再会だが、「忘れない」をやる必要がなくなって4年、今度は「ただ待つ」だけをやっている。ネット上で確認したアカバナルリハコベは、海辺の近くに生えていたものが少なくない。私は内陸に住んで約20年、海辺には滅多に行かない。さて、再会は叶うだろうか。






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