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神戸電鉄の終着駅はなぜ新開地なのか ①

 神戸電鉄の終着駅、新開地駅。阪急・阪神・山陽各路線に乗り換え可能なターミナル駅です。しかし神戸有数のターミナル駅ではあるものの、他のターミナルにみられる百貨店等大型商業施設、超高層のオフィスビルなどは存在せず、駅前を見る限りターミナル駅とは想像もつきません。

 また、各私鉄が乗り入れるものの、広範囲へのアクセスが可能なJRへの乗り換えもできず、神戸電鉄粟生線の廃線論議でもしばしばこの新開地というターミナル駅の位置が利用低迷の問題点として挙げられています。ではなぜ神戸電鉄は神戸駅や三宮駅ではなく、新開地駅に乗り入れることになったのでしょうか。

注:厳密には神戸電鉄の終着駅は湊川駅で、その先一駅区間(湊川ー新開地)だけ神戸高速鉄道という第三セクター鉄道に乗り入れています。しかし湊川での折り返し列車は設定されていないことから、この記事では便宜上、新開地を神戸電鉄の終着駅としています。
(下の画像は神戸高速鉄道の路線図です。)
出典:http://www.kobe-kousoku.jp/ekiinfo.html

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かつて神戸の中心だった新開地
 神戸は東西方向に広がる僅かな平地しか持たず、そこに東洋一といわれた港が築かれたことで発展を遂げます。明治以降、神戸港の発展とともに神戸は過密化し、過密が原因で感染症が流行するなど、利用できる土地の少なさは神戸市の長年の課題でもありました。そこで神戸市は公共工事を通じて土地の拡大を目指すようになります。

 明治時代、現在の湊川駅周辺から海へと、まるで神戸を東西に二分するかのように湊川が流れていました。明治34年、神戸市はこの湊川を埋め立てる大工事を行っています。この工事によって生まれた土地及びその周辺地域に歓楽街が誕生しました。それが現在の新開地や湊川と呼ばれる地域です。港や工場に近いことから商業需要が多かった新開地には、映画館や劇場が数多く立ち並び、神戸文化の中心地と呼ばれるようになりました。戦災による打撃はあったものの、戦後には全盛を迎えた造船・鉄鋼業界から再び消費が新開地にもたらされることとなります。

 しかし街の中心は時代や環境によって常に移り替わるものです。首都圏・関西圏においては郊外鉄道の登場で、街はずれだった新宿や梅田が大きな発展を遂げました。一方でこの恩恵を受けられなかった街は次第に力を失うこととなります。他都市の旧市街がそうであったように、アクセスの大半を市電に頼っていた新開地・湊川も次第に衰退へと向かいます。さらに昭和32年には県庁が三宮に移転、また沿岸部にあった工場群が郊外に移転したことで新開地や湊川は活気を失い、神戸の中心地といえば三宮といわれる時代となりました。

 かつて新開地に神戸タワーという建物がありました。戦前、元町が終点だった阪神電鉄が、湊川への路線延伸を企図し神戸タワーに広告を出していたことからも、新開地・湊川の繁栄ぶりが窺い知れます。


神戸高速鉄道計画の始まり
 昭和11年、阪神急行電鉄(現阪急電鉄)は念願だった三宮への乗り入れを果たし、神戸に乗り入れる私鉄4社はそれぞれに元町(阪神)、三宮(阪急)、湊川(神鉄)、兵庫(山陽)に終着駅を設け、それ間を神戸市電が結ぶ交通網が完成しました。

 モータリゼーション前とはいえ、各ターミナルの市電での連絡はその速達性・定時性の観点から難があったことは容易に想像でき、昭和4年頃から2年間ほど神戸市では東西方向での高速鉄道整備に関する調査が行っています。また、阪神・山陽両社はそれぞれ湊川への乗り入れを企図し、完成時には相互乗り入れを行う計画を進めたものの、こちらも経営状態からの断念し戦後を迎えます。

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 戦後になると交通量が増大、分散したターミナルをまとめる高速鉄道の必要性が叫ばれ、ここに神戸高速鉄道計画は産声をあげます。神戸市は早くも、昭和20年12月に部会が設置、昭和21年4月には現在の案と大きな違いのない神戸高速鉄道計画が市長へと答申されました。

神戸市高速度鉄道建設計画要綱
1. 京阪神急行(現阪急)、阪神、山陽の三電鉄を神戸市内で東西に結ぶ
2. この路線は市内を縦貫する幹線道路の地下を利用する
3. 別に神有電鉄(現神鉄)を南に延長し、高架式で国鉄神戸駅に直結させる

 この時点で神戸電鉄の乗り入れ先は高架式で神戸駅に乗り入れることとなっています。結局この計画は実現せず、現在の新開地駅への乗り入れに変更されることとなりますが次の記事でその紆余曲折を見てみたいと思います。

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