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「創造」苦からの解放

人は、安息の状態を本能的に維持しようとします。それはホメオスタシス(恒常性)です。人間の行動の基本原理は「この生命を可能な限り長く、良い状態で維持する」という欲望に条件づけられてるように思います。

その根源的欲望から、人はさまざまなものを創造してきました。

暖や灯りを得るための「火(熱源)」、狩猟のための「武器」、助け合うための「共同体(人間関係)」、移動のための「乗り物」…人類の歴史を遡れば、無数の創造があります。これらは人間の暮らしをより良くし、「生命を可能な限り長く、良い状態で維持する」ことを助けてきました。

もう一つ、人は「善悪」という区別を創造しました。この善悪の区別は、虚構であり実体がなく、普遍のものではありません。というのも、立場(視点)によって容易に変わるからです。

立場によって善悪の区別が変わるから、論争が生じ、喧嘩が生じ、戦争が生じます。立場によって変わらない絶対的な善悪の区別をするには、全智を具えた神になるしかありません。全智を持たない人間が善悪の区別をしてしまうと、「誰かにとっての善いことは、誰かにとっての悪いこと」という状態から永久に逃れられません。

そして私たちデザイナーは、社会に向けてモノを創造する上で、常に「善悪」の判断をしています。

誰のために「善い」ものを作るのか。
高齢者にとって善いものを作るのか。
子どもにとって善いものを作るのか。
動物にとって善いものを作るのか。
自然環境にとって善いものを作るのか。
人類にとって善いものを作るのか。
私たちの「生命を可能な限り長く、良い状態で維持する」ために、善いものを作るのか。

その創造する対象は勿論、対象と周辺との関係性においても、最も「善い」ものを作ろうと、デザイナーは尽力します。

ですが、全てにおいて完璧な「善い」ものを創ることは、善悪の区別が絶対的なものでない限り不可能です。私たちがどんなに突き詰めて「善い」ものを作ろうとしても、何かにとっての「悪い」ものになることを、諦めざるを得ないのです。もしくは、私たちデザイナーの考えが及ばないところで「悪い」ものとなっているはずなのです。それは、全ての立場に立って考えることが不可能(全智を持てない人間)だからです。

「全ての人にとって善いものを創るのは不可能だなんて、最初から分かっていることじゃないか。だから、できるだけよいものを創ろう」と割り切るのが、人間なのかもしれません。でも私はそう思いません。すべての人にとって善いものを創れないのであれば、「創造」自体をやめた方がいい。創造をやめなかった結果、環境破壊、生態系破壊、戦争等、人間はあらゆる苦を生み出したのではないでしょうか。

もし人間が植物のように、言語も持たず、社会もつくらず、過剰に栄養を摂取せず、細細と生きて、消滅する生物であったら、あらゆる苦は創造されず、安息の世界だったのではないでしょうか。「人間をやめる」とは、「創造」の苦からの解放を目指すという意味です。

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