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「創造」と仏教的思考

稀代の大天才である仏陀釈迦は、縁起…無明(無知)が因、縁となって業(行為)が生まれ、その業が世間を作っていると説きます。これは、ひとつ前の記事に書いた「人間の欲」から「創造」が生まれ、この社会(世間)を作っているということと構造を同じくします。

人間を人間たらしめている「創造」を、仏教的解釈を加え敷衍すると「因縁を生む行為(縁起性)」と捉えることができるのではないでしょうか。「因」とは原因要素、「縁」とは条件づけというほどの意で、原因が縁(条件)づけられて、事象が生まれる。それが創造。

私はデザインを生業としていますので、”デザイン的創造”を例として、この因縁を生む行為を説明したいと思います。

デザイン方法は様々あると思いますが、例えば、まず最初にデザインする対象の持つ要素を分解(分けて理解)し、過去の系統や歴史、対象物と周辺との関係性などを綿密に調べていきます。そして、要素と要素の関係性を変えたり、別の要素とつないでみたり、無駄をなくしたり、試行錯誤を繰り返します。試行錯誤を重ねることで、徐々に輪郭を帯びてきた”最適解”のようなものを、デザインとして落とし込む。これはデザインに限らず、普遍的な創造方法のひとつとして、ものづくりに携わる方は皆さんおこなっているかと思います。(太刀川英輔さんの進化思考という本で体系化されています。)

これはまさに「因縁を生む行為」に他ならないのではないのではないでしょうか。いろんな原因を条件づけることで、新しいものを生む。創造とはそういう仕組みです。

重ねて書きますが、創造とは「様々なものを因として、縁を生む行為」であり、上述した創造方法によって、過去無数に繰り返されてきました。その集積体がこの”社会”です。

「人間をやめろ、創造をやめろ」という仏教的スタンスを現代に持ち込むということは、壮大な「そもそも論」を始めるようなものです。「環境問題や絶滅問題は、人間が創造しなければ起きなかったことなんだから、創造をやめようよ。」

この「人間をやめろ」を提唱するには、世間的にも倫理的にも風当たりが強そうに感じますが、実はそんなことありません。今の時代の世の中があってこそ、人間をやめやすいのだと私は考えています。

創造が「様々なものを因として、縁を生む行為」だとすると、必ずしもクリエイティビティ、ものづくりに限定されるものではないと解釈できると思います。それはまた、次回に書きたいと思います。

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