宗教が疎まれるこの時代に、 「宗教」を人生に取り入れる
日本人は「宗教」が苦手
多くの日本人は「宗教」というもの苦手だと思う。というか 嫌悪感すら覚えるかもしれない。
理由は、そもそも「よくわからないから怖い」というのが1つ。
(調べてみると「信仰を持っていない」と自認している日本人は 3人に2人。にもかかわらず、初詣と、墓参りと、クリスマスといった宗教由来の行事を共存させている。世界もビックリ。)
あとは オウム真理教が起こした 地下鉄サリン事件だったり、昨夏の統一教会がらみの事件も、悪影響を及ぼしている思う。
そんな多くの日本人が敬遠する「宗教」というものに私は 昔から興味があった。
宗教に興味を持った理由
私が 宗教に興味を持った理由は大きく2つ。
1つは、友人(の家)が「信仰心が強い」ことが多かったこと。
もう1つは、世界に出てみると「無宗教」の方が少数派だと身をもって知ったこと。
① 宗教2世、3世の知り合いが多かった
はじめて「宗教」というものに触れた経験は、学生時代の恋人。
彼のお家は、信仰心が強いお家だった。定期的に宗教行事のために 家族みんなで出かけていた。
彼曰く、彼のお母さんは「宗教に理解のあるお嫁さんと出会えますように」といつも祈っていたらしい。それを聞いたとき、私は果たして理解のあるお嫁さんになれるのだろうか。もし なれなかった時には、家族として認めてもらえないんだろうか、と 疑問だった。
ある日、その宗教行事に一緒に参加しないかと声をかけられた。
「得体の知れないもの」に ちょっと怖いなと思ったが、自分の目でみてみないと実態はわからないなと思っていくことにした。
人間には、2つのパターンがいる。1つは「よくわからない」だから「距離をおこう」と思うタイプ。もう1つは「よくわからない」だから「近づいてみよう」と思うタイプ。日本人の多くは 前者のようだが、私は 後者だった。好奇心万歳。
がしかし、その行事の直前に 彼とはお別れしてしまった。なので、よくわからないまま終わった。けれど、それが「宗教」というものに関心を持つきっかけに なった。
次の出会いは、友人。
ある日、私が別れた男のことを ケチョンケチョンに けなしていた時、その友人は 信仰している宗教の書籍を引用して、私に諭してくれた。私の愚痴は、本当に ひどい内容だったので 素直に反省した。借りた書物の内容は 難しく、内容をすべて理解できたわけではないが、これが彼女が大切にしているものなんだなぁと漠然と眺めた。
理解を促すきっかけを作ってくれたのは、また別の友人。
知り合って以来、毎日のように連絡をとっていた。そんな彼から ある日 突然「◯◯党に入れてほしい」と連絡がきた。選挙に関するお願いだった。
それまで、その友人とは 政治の話を まったくしたことがなかった。素直に驚いたし、正直なところ心の中に なんとも言えない嫌悪感が芽生えた。
でも私は その友人のことが好きだった。これまでの付き合いで、たくさん助けられたし、心から信頼もしていた。だから、こんなことで距離を置いたり疎遠になったりするのは嫌だなと思った。
だから、あえて 突っ込んで聞くことにした。
(「よくわからない」だから「近づいてみよう」と思う性格に万歳)
なぜ私に声をかけたのか、なぜその政党を推しているのか、なぜその宗教を信仰しているのか、今までに声をかけることで友人を失ったり嫌な経験をしたことはないのか。
当時の私の前提知識や理解力では、私の疑問の全てが解消することはなかった。
けれど、彼との度重なるやりとりの中で、
を理解した。
だから私は ひとまず、彼のその気持ちを受け取ることにした。
それから、その宗教の書籍を借りたり、宗教の話をしたり、そんな日々が続いた。書籍や冊子に書かれてあることは 見慣れない表現が多かったけれど、普通にいいことだった。
②「無宗教」が多数派の国は世界中でたった2.6%
学生時代から、よく旅をしていた。
世界一周も経験し、気づけば 訪れた国は45カ国になった。
現地で仲良くなった人に誘われて、世界各地でキリスト教の教会に行った。
結婚式で聞くような綺麗な賛美歌を歌うところもあれば、ライブ会場みたいな音響と光でジャンプしたり、叫んだりするようなところもあった。
ユダヤ教の聖地であるイスラエルの「嘆きの壁」に行ったら、伯爵みたいな格好の人が 真剣にお祈りしていた。
イスラム教のモスクにも行った。1日5回の礼拝のタイミングでは、石焼き芋みたいな歌が 町中に響き渡っていた。日本にいると 怖いイメージのあるイスラム教だったけど、旅をしてみて一番優しくしてくれたのはイスラム教徒だった。
旅先で仲良くなった人に声をかけられて「エホバの証人」のパーティーに行ったこともある。
輸血問題だったり、街中で冊子を配っていたり、で何かと話題の「エホバの証人」。正直なところあまりいいイメージを持たれることのない宗教という認識だったので、どんなパーティーなんだろう と緊張しながら行った。
結果、拍子抜けするくらい普通のダンスパーティーだった。勧誘されることもなく、何かを渡されることもなく、請求されることもなく、ただただ美味しいものを食べて帰宅した。
世界には「宗教」というものが溢れていた。
日本ではタブー視されている「宗教」の話題が、あたり前のように繰り広げられていた。
旅先で 出会った人に こう聞かれた。
『あなたは どんな宗教を信仰しているの?』
「特になにも…」と答えたら、目を見開いて 『Really?』と心底驚かれた。
そんな驚くことかと思ったけれど、調べてみると 世界で「無宗教」が多数派の国はたった2.6%しかないらしい。
日本の中で 多数派だと思っていた私は、その時初めて 世界では少数派であることを知った。
同時に 97.4%の国で信仰されている「宗教」をもっと知りたいと思った。
「信仰心がある」ってどういうことなのだろう。
宗教のある生活を体験してみたい
倫理の教科書を読んだり、書物を読んだり、旅先で宗教施設を訪れてみたり、世界の人々と話したり、そうすることで「宗教」というものの特徴を掴むことは できる。
ヒンドゥー教では牛を食べないだとか、イスラム教では 断食があるだとか、そういうことは勉強していけば 知ることができる。
けれど、「信仰心がある」というところまで掴むのは、1人ではできなかった。「宗教のある生活」が今の私の生活と どう違うのか。
私は「宗教のある生活」を実際に 体験してみたいなと思うようになった。
そのチャンスは ふいに訪れた。
訪れた「宗教のある生活」 体験のチャンス
結婚したパートナーの実家も、信仰心の強いお家だった。
なかでも 義父は立場もある方で、いわば 会社でいう役員だった。
(正直いうと 結婚の挨拶のタイミングで 信仰を迫られるんじゃないか、と勝手に ビビっていた。けれど 義父が「人に強制されてやるものではない」と断言してくれていたので、無理強いされることなく至っていた。)
そんな 義実家に1年暮らすことになった。理由は、長期の里帰り出産。
夫婦ともに1年間 育休が取れることになったので 夫と相談して、義実家にお世話になることにしたのだ。(詳しくはこちらのnoteで)
ふいに訪れた「宗教のある生活」を体験できるチャンス。願っても そう簡単に手に入るものではない。多くの日本人にとっては 「避けたいもの」なのかもしれないが、私は 正直 ツイてるなと思った。
義母に「私もやってみたいんです」と話すと、義母はいたく喜んだ。
振り返ると当時の日記にはこんなことが書かれていた。
具体的になにをやっているのか
「宗教のある生活」と「今までの私の生活」で変わったことは大きく2つ。
① 朝晩、お経を唱える
② 集会に参加する
① 朝晩、お経を唱える
(時間について)
朝飯前と、夜飯前の1日2回、お経をあげる。
(毎日決まった時間にちゃんとやれるのがベストではあるが、腹ペコがすぎる時とか、どうにもこうにも時間がないときとかは、時間をずらしたり、最悪の場合は スキップしてもOK。わりと柔軟。)
1回の 所要時間は 15〜20分くらい。(※人による。時間は自由。時間がないときは5分ということもあるし、毎日 1時間以上やる人もいるらしい)
Aメロ、Bメロ、サビ、Cメロ、という構成になっていて、サビをどれだけ長くやるかによって、所要時間が変わるようになっている。
何かしら祈ることがある場合は、これを1時間とか長くやったり、1日に何回も やったりする。(たとえば、私の51時間の陣痛中とか)
なお 「10時間やった」とか「1万回やった」とかが話題にあがることもあるが、義父曰く「長けりゃいい」ってものでも ないらしい。もちろん、その気持ちと行動は素晴らしいことだが。
(内容について)
お経なので 漢文みたいな感じ。
正直、勉強しなければ 何が書かれているか、よくわからない。(不勉強なので まだ読み下しを完了できていない)
最初は カンペみたいな紙をみてお経をあげていたけれど、3ヶ月ほど唱えていると、すっかり暗記してしまった。
小学生の頃、お葬式でお坊さんがお経を読んでいるのを見て かっこいいなと思っていたので、お経をあげれるようになったことが ちょっと嬉しかった。
あとは、葬式のお経の場合、いつ終わるのかよくわからなくて、すんごく長く感じていたけど、自分で読むと今どのあたりまで読んでいるのか進捗がわかるので、退屈さが減った。
(日々の継続について)
暗記するまでの数ヶ月は面白かったけれど、暗記してしまってからは、ぶっちゃけていうと「めんどくさいな」と思うことが増えた。
短期的な目線でいうと、「この15分で別のことやれるな〜」とか 考えてしまう。けれど、後述するが長期的な目線でいうと、この朝晩の15分は、大事だなぁと思うようになる。
② 集会に参加する
月に1回、地域の人が集まって、近況報告をしたり、経典の勉強をしたりする会がある。
場所は、集会場だったり、誰かの家だったり。
参加対象も、老若男女全員のものもあれば、女性限定の会もあり、おおよそ15〜30人くらいの単位で構成されている。参加は 任意。(仕事で欠席もOK)
1年間、いろんな地域の集会に参加させてもらった。
義父母が築き上げてきた信頼のおかげで、私は どこに行っても、あたたかく受け入れてもらえた。
みんなが楽しく参加できるように、とゲームを用意している地域もあったし、フリートークに多くの時間を割いている地域もあった。
共通しているのは、
・月1回発行される会報誌みたいなものの最初のページを読むこと
・数ある経典の中から1つ選んで、その内容について勉強すること
・幹部と呼ばれる、地位のある人が、話しをすること
この集会に行くと、0歳の我が子はそれはそれは大人気で、大層 可愛がってもらえた。
おばちゃん達は「キャ〜〜〜〜〜」と 目をハートにして、アイドルさながら。服をプレゼントしてもらったり、使わなくなったオモチャをもらったり、とても よくしてもらった。笑
町内会のおじさん、おばさんに可愛がられて育った私は、この集会で出会った方たちに、それに近いものを感じた。
この地域には、義父母以外に知っている人が1人もいなかったので、こうして 知り合いができたこと、我が子の成長を一緒に喜んでくれる仲間ができたことは、私にとっては嬉しいことだった。
以上、変わったことはこの2つ。
ほかに何かあるか、と言われると 特に思い浮かぶことはない。
なお、位が上がっていくと集会の内容を考えたり(義母)、幹部としていろんな地域にお話しをしに行ったり(義父)して、どんどん忙しくなっていく。
が、(会社でいう)平社員である私は、朝晩のお経と、月1の集会だけ。
そんなに負担もない。
そんな生活を続けて1年たった。
それまでの私は「宗教のある生活」を、すごく特別なことのように感じていたけれど、意外とそんなことはなくて 拍子抜けした。
「自分とは全く違うもの」で、「ずっと遠くにある、別の世界のもの」だと思っていたけれど、
「もっとずっと身近」で、「手を伸ばせば簡単に手が届く世界」だった。
すべてが「宗教のおかげ」の気持ち悪さ
ここまで書くと、なんの抵抗もなく、全てを サクッと受け入れられたように聞こえるけれど、そんなことはない。
気持ち悪いなぁと思ったことは、ちゃんとある。
例えば、「この宗教を信仰したら、こんなすごいことが起きたのよ〜」みたいな話。
「この信仰のおかげで病気が治った」だとか、「毎日お祈りしたおかげで、受験に合格した」だとか、「あの悩みを乗り越えることができたのは、この宗教のおかげ」だとか、そういうやつ。
信仰心が強い人ほど、すべての話が 「宗教のおかげ」だとか「宗教を通して出会った人のおかげ」という結論に終着していく。
あの日の出来事も、この日の出来事も、ものの見事に、全部、だ。
これは私の体感だけれど、何かしらの宗教に信仰心がある人の99%は、こういった話し方をする。
「この宗教をしたら こんないいことがあった。だから この宗教はすごい」だとか、「悩みがあるなら祈ってみて。この宗教のパワーはすごいのよ。必ず 叶うわ」だとか。
これには、ものすごい抵抗感があった。
んなわけあるか、と心の中で100回くらいツッコんだ。
本人からしたら全く違う!と怒られるだろうが、私からすると「このツボを買うと、願いが叶うのよ」と言われているのと同じ気分だった。
行動せずにただ祈ってりゃ 願いが叶うなんて、んなわけあるか。
この違和感を補うために私は、常に脳内で「この宗教が万能である」ではなく、「あくまで、この人にとってよかった。私にも良かれと思って言ってくれている」と 解釈しながら、話を聞くようにしていた。
自分にとって良かったもの / 役に立ったものがあれば、ほかの人にも勧めたくなるのが人間のサガだ。美味しいご飯屋とか、買って良かった便利グッズとか。
多くの日本人は この、「これをすれば、叶う」という発言で、ぐっと距離を置いてしまうように感じる。
スティーブ・ジョブズの名言は受け入れられるけど、宗教のことになると 途端に受け入れられなくなるのだ。
脳内解釈によって、なんとか拒否反応を出さずにいれた私だったが、ある日を境にこの類の発言に対し「違う見方」ができるようになった。
人の3倍努力すること
私が抱えている違和感について義父に話したとき、義父はこう言い放った。
私が感じていた「気持ち悪さ」を、義父は ものの見事に砕いてくれた。
つまり「この宗教をしたら、こんないいことがあった」の中には、
「この宗教をしたら(今までなら くじけていたであろう日も "いや やっぱり頑張ろう" と自分を奮い立たせることができるようになった。そうして 諦めることなく 日々の努力を積み重ねることができて、その結果として)こんないいことがあった」 という意味が込められているのだ。
いや、そこ省略するなよ。
「受験」という 具体例を交えて説明してみる。
「毎日祈った結果、受験に合格した」
これがよくきくフレーズ。んなわけあるか、と突っ込みたくなる。
それをこう補ってみる。
「受験に合格しますように」と毎日、祈った。
祈ることで 今までなら「今日は疲れているから勉強しなくていいや」と 怠けてしまっていた日も、"いや やっぱり頑張ろう" と 自分を奮い立たせて机に向かうことができるようになった。
そうして 疲れている日もしんどい日も、サボることなく日々 勉強を積み重ねることができた。その結果として受験に合格した。
なーんだ、こう解釈すれば、全然 気持ち悪くない。
スッキリ受け入れられるようなった。
自分でどうにかできることと、できないことを切り分ける
義母からこんな話を聞いたこともあった。
よく耳にするのは「祈れば、アトピーが治る」というフレーズ。
義父はこれを そのまま言葉通りに 受け取ることを否定した。そして アトピーを治すために必要なことを 以下の2つに切り分けた。
つまり、自分でどうにかできる部分(=情報を集めるとか、病院を探すとか)の努力は怠ることなく継続し、
自分ではどうにもできない部分(=いい先生に出会って 最終的に病が治ること)に対して祈るのが大事、ということ。
逆をいうと、どうにもできない部分を あれこれ考えて悩んでいても、どうしようもない。くよくよ考えて 思い悩む、その時間も苦労も もったいない。
どうしようもないことに対しては 悩むのをすっぱりやめて「祈る」という行動にフォーカスする、それが効率的だし精神衛生上も健全である、と私は受け取った。
やるせない気持ちを「祈り」によって、昇華させるのである。
こう考えられるようになって以来、祈るという行為を肯定的に捉えられるようになった。
例えば、「祈れば、行政書士試験に合格する」だと受け入れ難いが、
行政書士試験合格のために 自分でどうにかできることとして、
自分ではどうにもできないこととして
だと、違和感なく受け入れられるようになった。
ラスボスだからこそ、よかった
義父は この宗教界において、会社でいう役員みたいな立ち位置にいて、最初は「ゴリゴリの信者やん。いきなりラスボス。マジか、やばいところに嫁いでしまったな」と思っていた。 けれど、後から考えれば、これは むしろ すごくラッキーなことだった。
宗教を学ぶに際し、私が理解に苦しむことや、抵抗感を拭えないことは、すべて義父が1つ1つ納得のいく回答をくれた。
義父は 決して「やってみればわかる」だとか、「とにかくすごいのよ」だとか、みんなが言うような そういう ふんわりしたことは言わなかった。
義父の返答は、全て 無宗教の私でも すっと理解できる内容だった。
不適切な表現をしている時には、「厳密にいうと、そう。この表現は正しくはない。けれど ここではあえて 鼓舞するために、こういう書き方をせざるをえないんだよな。よくはないんだけど、現状 こうなってしまっている」と、間違いを認め、そうなった背景まで説明してくれた。
義父がいなければ 私は今でも 宗教というものへの違和感を捨てることはできなかったと思う。
「やってみればわかる」とか「とにかくすごいのよ」とか、そういうふんわりしたことしか教えてくれないお家に嫁いでいたならば、私は 一生 理解することなく人生を終えていたに違いない。
「何を聞いても納得のいく回答が返ってくる」の背景には 確実に 並々ならぬ努力がある。義父の「人の3倍の努力」に心から感謝と尊敬を送りたい。
この宗教の いいなと思った考え方
義父から教わったことで私がいいなと思ったことを簡単に紹介してみる。
(※あくまで私の解釈。専門用語を使わず、スピリチュアル要素を極力減らすために、若干 意訳しているところもあります。)
ちょっと何言ってるか わからないなと思ったので、ポケモンに例えてみる。「ゲームと一緒にするな!」とかいう批判は今は一旦、お控えいただきたい。
目的は、かつての私のような「宗教に対して抵抗感のある人」が、こういった考え方に共感を持てる部分を増やすこと。
ポケモンに例えていうと……
→ 何もせずに、99レベに到達できるわけない。99レベに到達するためには 人の3倍努力する必要がある。
→ 99レベに到達するにあたって、自分でどうにかできることと、どうにかできないことを切り分ける。
例えば、日々の対戦で経験値を培うことや、いろんな人に話しかけて情報を集めていくことは自分でどうにかできること。
対して、技が敵の急所にあたるとか、対戦相手が自分にとって有利なタイプであるとか(例:相手が「いわ」タイプで自分は「みず」タイプだと、自分が有利) そういうことは自分ではどうにもできないこと。
そして自分でどうにかできることに対しては、努力する。
どうにもできないことに対しては、祈る。(急所にあたれ!とか、有利なタイプこい!とか)
→ 対戦相手に勝つことばかり考えがちだが、何より大切なのは 対戦相手に到底勝てそうにもない時にも、決してくじけない自分になるということ。
「もう無理だ、こいつには勝てない」と諦めてしまうのではなく、めげずに 何度も何度も挑戦し立ち向かう、そのメンタルを培うこと。
→ ポケモンというゲームは、そもそも目の前の敵を倒すためにやるものではない。真の目的は 自己のレベルをあげ、99レベに到達することである。
→ 草むらでの野生のポケモンとの遭遇は、経験値を蓄え自己のレベルをあげるチャンスである。怪我をしたり、目の前が真っ暗になることもあるかもしれないけれど、自分の成長のためにはプラスになる。
→ 草むらを歩くことをせずに 家にひきこもっていたら、経験値を蓄えることも レベルをあげることもできない。
→ ジムリーダーとか、四天王とか、最初遭遇した時は「絶対勝てないやんこれ、、、」と絶望するような敵も、他の相手と対戦したり、草むらで修行を積むことで、レベルが上がって、いずれ勝てるようになる。
→ 倒したポケモンや、トレーナーが強ければ強いほど、もらえる経験値は多いし、早くレベルが上がる。
それだけじゃなく 自分がジムリーダーになったり、四天王になったりすることで、まわりの友人プレイヤーを「俺も頑張ろう」と勇気づけることができる。
とまぁこんな感じ。
どうだろう、「確かに、そうだな」と納得いただける部分が少しでもあっただろうか….
困難に直面した時に「なんでこんな目にあわなあかんねん……」と思うのではなく、「おっしゃ、レベルあげチャンス♫」だとか「これを乗り越えたら、そのうち誰かの役に立つやろ♫」と常に 前向きに 捉えられる人は、人間として強いだろう。
いいものだとは思う。 が、信仰はしない
そんなこんなで、「宗教のある生活」の体験を始めて半年経つ頃には、この「人間レベルをあげるための宗教」を いいものだな、と思うようになっていた。
が、信仰するかと言われるとまたそれは別の話だった。
理由は、現状に満足していたから。
めっちゃ健康だし、お金の心配もないし、パートナーとの関係も良好。仕事や育児の悩みもない。
信仰を始める人の多くは、何かしら悩んでいることが多い。
がしかし、当時の私には、これといって悩みが存在しなかった。
あとは、毎日続けられる気もしなかった。
信仰したら 毎日朝晩のお経を続けなければならない。
義実家で生活しているうちは 義両親が「一緒にやろう」と声をかけてくれるが、大阪に返ってから毎日自主的に、かつ継続してやれる自信は なかった。その熱量も持てていなかった。
やった時と、やらなかった時
数ヶ月の停滞期を過ごしたのち、このままでは 意味がないなと思い、あらためて 朝晩のお経の時間の意義を考えることにした。やった時と、やらない時でどんな違いが生まれるのか。
浮かんだのは 以下。
① 早起きできる
② 勉強できる
③ あとまわしにしていたことに着手できる
④ 夫への八つ当たりが減る
⑤ 家事の貢献率があがる
① 早起きできる
夫婦で育休をとっている我々は 正直何時に起きても良いので、9時や10時まで だらだら寝ていることが多かった。
しかし、義両親と 一緒にお経を唱えると決めてからは (ほぼ)早起きできるようになった。 というのも 義父は平日仕事があり、一緒にやるためには 7時50分までに起きる必要があったから。
早起きした方が1日の中で有効に使える時間が増える。
そしてお経を唱える、つまり口を動かすので、唱え終わる頃には しっかり脳も起きている。すぐに活動が開始できて 朝のだらだら過ごす無駄な時間が減った。
② 勉強できる
私は 毎日の祈りの項目のうちの1つに「試験合格のために今日も 勉強できる状況でありますように」というのを入れていた。
「合格しますように」ではなく、「今日も 勉強できる状況でありますように」だ。勉強できる状況、というのは、自分にも家族にも体調不良がない、とか、差し込みでやらねばやらない突発事項が発生しない、とか、そういうやつ。
で、その「勉強できる状況」が整っているのならば、さすがに勉強せずにはいられない。
そうして、お経を唱え終わったら すぐに勉強に取り掛かる、というルーティーンができた。結果的に従来よりも大幅に勉強の継続ができるようになった。
③ あとまわしにしていたことに着手できる
そのほかお経を唱えていると、いろんなことを考える。「あれもしなきゃ」「これ忘れてたな」なんてことを思い出したりもする。
そのうちやろう、と思って後回しにしたものは大抵、一生やらずに終わる。
それでいいものもあるけれど「心の中では やった方がいいとわかっているけれど、やれていないもの」に関しては話が違う。
このお経の時間は、こういった類のことを思い出せて、そして「着手するかぁ」と重い腰をあげさせる役割も担っていた。
④ 夫への八つ当たりが減る
お経の時間は、立ち止まって自分を内省する時間にもなる。
「昨日の発言、失敗したなぁ」とか、「あの時の態度 よくなかったなぁ」とか。
夫へ八つ当たりをしてしまった後の お経の時間には、よく反省をしている。夫からしたら差異はないかもしれないが、私個人としては 内省の時間が取れている時の方が、1週間あたりの不機嫌の出現率が低いという自覚がある。
⑤ 家事の貢献率があがる
同じように内省の中で「最近、私 家事 なにもしてないな」と思うことも多い。食器を洗わずに寝ちゃったな、とか、しばらくお風呂洗ってないな、とか。全く誇れた話ではないが、私は 嫁いでおきながら、義実家にお世話になっておきながら、「何もしない嫁」であるという自負がある。
義母も夫も 仏の優しさで、私の自主的な行動を 待っていてくれているので、失望しきられる前にやらねば……と、お経の時間が 定期的にスイッチを入れるきっかけになっている。(それでもなお、人並み以下ではあるが……)
振り返ってみると、やっていて よかったことは意外と多かった。
目標達成メソッドとしての活用
以上を踏まえてあらためて、この「お経の時間」にはどんな価値があるのか考えてみる。
①目標を明確にできる
祈るためには、まず「何を祈るのか」を考えねばならない。
「家族の健康」だとか「行政書士の合格」だとか、「シェアハウスの物件が見つかる」だとか、そういうやつ。
これを考えずに祈っていては、価値の薄い時間になってしまう。せっかく毎日40分、1ヶ月で21時間、1年にして243時間 使うからには、ここをはっきりさせておかなければ意味がない。
この「何を祈るか」を日々考えることで、自分は 人生で何を目標とするのか、何を大切に生きていくのか、というのが明確になっていく。
②具体的な行動に落とし込める
祈る内容が決まったならば、具体的な行動として自分でどうにかできることと、自分には どうにもできないことに切り分ける作業が発生する。
たとえば「シェアハウスがうまくいく」なのであれば、
自分でどうにかできることとして
自分でどうにもできないこととして
があげられる。
この切り分け作業によって、自分にできることが明確になり、具体的な行動にうつせるようになる。
③ 不必要なことで悩む時間が減る
上記で、「自分にはどうにもできないこと」と切り分けたことに対しては、文字通り どうしようもないので、そこに対して、不必要な時間を費やすことがなくなる。
不必要な時間というのは、「こうなっちゃったらどうしよう〜〜〜」だとか、「やっぱり無理かな〜〜〜」だとか、思い悩むだけで、なーんにも生み出さない時間。そういった時間を なくすことができる。
さらに、時間だけではない。
そういった思考というのは大抵、メンタルの不安定も一緒にもたらしてくる。どうにもならないことに思い悩むことをスッパリやめて「祈る」という行動にフォーカスすることで、メンタルの低下も予防することができる。
とはいえ あくまで「自分ではどうにもできないこと」なので、ここに対して長い時間を割くことはあまり建設的ではない。
行き場のない「やるせない気持ち」を昇華させるために必要な最低時間が、祈りの時間に最適だと 思っている。
そういえば、夫は自然とこれができる人間だ。さすが。
④ 目標を意識する頻度が多いから、継続できる
思い出してみてほしい。
初詣。神社に行って、パンパンと手を合わせ、心の中で願い事を唱える。
「家族が健康でありますように」「受験に合格できますように」「試合で活躍できますように」
そうして神社に行った帰り道、妙にモチベが高く、ムクムクやる気が湧いてきた経験は、ないだろうか。
そして、あの時 みなぎっていたはずの やる気が、たった数日で綺麗さっぱり消え去ってしまった経験も。
人間、目標を掲げた時が 一番やる気があって、時間の経過とともに、そのやる気は下がっていく生き物だと思う。
じゃぁ、そのやる気を維持するためにはどうしたらいいのか。
目標を意識・再確認する頻度を上げる、これに尽きると思う。
この「お経の時間」は朝、晩の一日2回。
初詣で、新年の一度だけ365日で【1回】、目標を意識するのと、お経の時間の1日に2回、365日で、【730回】、目標を意識するのとでは、やる気の維持に大きな差があるのは言うまでもないと思う。
朝「よし今日は勉強するぞ!」と心に決める。けれど大抵 忘れて だらだら過ごしてしまう。晩に「あ、忘れてた。今日は勉強するんだった」と思い出すことができる。そこから、寝る前に勉強することに成功する。翌朝「やっぱ夜だと集中できないから今日こそ 朝やろう」と心に決める。で、できたり、できなかったり。
1日に目標を意識する機会が複数回あるのは、とても良い。
そういう意味では、イスラム教のお祈り5回は、なかなか強い。が、さすがに多いかな、という気もする。笑
ここまで説明してみたわけだが、これどこかで聞いたことないだろうか?
そう、日本人が好きな「自己啓発」というジャンルで同じようなことを言っっている。
「宗教」というと、よくわからない世界、スピリチュアル!というイメージが先行するが、考えてみれば「自己啓発」だって宗教の1つなのだ。
スティーブ・ジョブズだとか、松下幸之助だとか、そういった誰かの名言を核にして生きるのと、宗教の経典の一説を核にして生きることに大きな違いはない。
「目標を達成するための5つの方法」とか「悩みに振り回されない自分になるための51のヒント」とか、書店には そういう類の本が並んでいたりするが、それも全部1つの宗教。
どの分野で使える考え方、メソッドなのか。特定の部分に限定されているのか、それとも広範囲で役立つものなのか。
あとは それぞれ細かい流派があって。好きなものは先に食べるべき、とか、残しておくべき、とか。
そういった中で、役に立つ場面が限定されておらず、体型的になっているのが世にいう「宗教」にあたるのだと思う。
そう思い至るようになって、私は「宗教」とうまく付き合えるようになった。
「宗教」を目標達成メソッドだとか、内省のツールとして 活用する。
目標達成に関しては、
行政書士の合格だとか、子育てシェアハウスの推進だとか、やろうとしていることの再確認と、行動の具体化、日々の積み重ねを着実に遂行すること。
内省に関しては、
八つ当たりをしないだとか、家事や育児をちゃんとやるだとか、人間としての成長や人格形成に寄与するベースを培うこと。
そう決めてからは、それまで「めんどくさいな」と思っていたお経の時間が、自己の人生をよくする時間として、よく機能するようになった。
信仰の確信を得る瞬間
話は変わるが、この宗教で出会う人の中には、たまに確信に満ちた言葉をくれる人がいた。
例えば『シェアハウスにいい物件が見つかるといいね』ではなく、『絶対、見つかると思うで〜〜〜』という言葉をくれたり、
『試験、勉強した範囲が出るといいね』ではなく『やった問題しか出ないよ!』と確信の言葉をかけてくれたり。
これに対して「無責任な」みたいな話もあると思うが、私は この確信に満ちた発言ができる人をシンプルにすごいなと思っていた。
なぜなら、きっと この人は、自分がやることに対しても「できたらいいな」ではなく、常に「絶対できる!」と思っているだろうから。
「できたらいいな」と思いながらやることと、「絶対できる」と思いながらやることだったら、後者の方が結果がついてくる可能性が高い。(気がする)
これらの人は、なぜ確信を持てるんだろうなぁと思っていたけれど、答えはシンプルだった。
自分でそう、決めているのだ。
「無理かも」と思うのではなく、「絶対できる」と自分で決めている。
自分を信じるという根本的なことを丁寧に積み重ねて、同じように 他人に対しても「信じる」を行っている。
これは「宗教への信仰」にも通ずるものがあるように感じる。
どうしたら信仰心を持てるか、の答えは、自分で「信じる」と決めること。
どれだけ理論を解こうが、どれだけ検証しようが、どれだけたくさんの人と話そうが、最後に「信じる」と自分で決められなければ、いつまでも信仰心は持てないのではないか、と、そう思うようになった。
信じられるかどうかじゃなくて、信じると決めるかどうか
どうしたら人は 信仰心を持つようになるのかずっと疑問だった。
信仰心がある人は特別な感情を持っているのだと思っていた。
けれど違った。
特別な何かではなく、自分が「決める」かどうかの問題だった。
そう腹落ちしてからは、私は人に「信仰の確信を得た瞬間」を問うのをやめた。
それまで出会った人は大抵、
「何かしらの課題があった → 試しにお経を唱えてみた → うまくいった → だから確信を持った」という話をしていた。
私はそれを聞くたびに「たまたまやろ」とか、「それは自分の努力やろ」と心の中で思っていた。でも、そうじゃないのだ。
その人が、その人の中で、そう決めている、のだ。
つまり、私も決めれば、いいだけ。
そうして、私は自分の人生に「宗教」を取り入れることにした。
理由は
・人間力のレベル上げのツールとして使うことに納得感を持てるようになったから
・実際に使ってみて、目標達成メソッドと、内省のツールとして、使い勝手が良かったから
・どうせ 使うなら「これ意味あるかな」と疑いながら使うより、「価値がある」と自分で決めて使った方が、結果としても、自分の気持ちとしてもいいと思ったから
・町内会の機能が失われつつある今、この宗教の集まりは、唯一レベルで残っている地域コミュニティだと思ったから。
これから どう生きていくか
今の私のスタンスを「信仰心がある」と呼ぶのかどうか はわからない。
これを読んだ 信仰の先輩方は 「それは違うぞ」と思うのかもしれない。
でも、とりあえず、今の私は「いい人生を送るには、宗教はあった方がいい」と思っている。
だから、何が正しいとか、これは間違っているとかじゃなくて、お互いの違いを認め合いながら 仲良く楽しく対話していけたら私は嬉しいです。
なお、人生に「宗教」を取り入れたとしても、私は私のままだ。
引用元として使う機会が増えることはあるかもしれないが、無理な勧誘をしたり、ツボを売りつけたりするつもりはサラサラないので、安心いただきたい。
「あくまで私にとっては いいものだった。でも あなたにもいいかはまた別の話。もちろん興味があれば紹介はするけれど」というスタンスで、できるだけフラットに居続けようと思う。
(とかいいつつ、数年後にゴリゴリに染まってしまっていたら、すまん)
日本人が持つ「宗教」に対する抵抗や嫌悪、そして勘違いが 少しでも減って、
いろんな価値観、考え方、そういうものをお互いに認めあえる、多様性のある社会になることを願っている。
Special Thanks…
お世話になった方への感謝を述べてこのnoteを締めくくりたいと思う。
まず、私が一番最初に この宗教に出会うきっかけをくれたAさん。あなたが ずっと いい友人で居続けてくれたから、私は この宗教に対して いい第一印象を持つことができました。あなたが最初で本当によかった。ありがとう。
実践するきっかけをくれたJさん。当初、見学だけするつもりだった私を、あなたの一言が変えてくれました。同世代の友人である、ということも良かった気がします。とりあえずやってみる、そのための背中を押してくれてありがとう。
私の継続を支えてくれたSさん。あなたの声かけがなければ私は到底、続けることはできませんでした。たくさんのところに連れ出していただき、おかげでたくさんの人の出会いと、視野の広がりを得ることができました。ありがとうございます。
私の疑問にすべて 答えてくれたIさん。私の違和感を否定することなく受け止めて、どんな質問にも私が納得のいくまで答えてくださり、本当に助かりました。あなたがいなければ私の人生に宗教が登場することはなかったと思います。ありがとうございます。
いつも私を信じてくれたKさん。あなたの「絶対にうまくいく」という確信の言葉に何度も支えられました。設けてくださった新たな出会いの場でも、大きな学びがあり感謝の気持ちでいっぱいです。私もあなたのような人になりたいです。
家族のような存在のKさん。損得勘定ではなく 優しさと思いやりで動くあなたのその姿勢に何度も心を動かされました。普通の人なら見せないであろう、ダメだった自分も 包み隠さずに話してくれたからこそ、強い信頼を持つことができました。いつもありがとうございます。
「決める」を後押ししてくれたTさん。自分で決めること、宣言することの偉大さは、あなたから教わりました。入会の背中を押していただき、ありがとうございました。
友達として出会ったKさん。「人として好きだな」と思った人が、たまたま この宗教の人でよかったです。この宗教に対するポジティブなイメージがあなたのおかげでまた1つ増えました。
そのほか、この宗教をとおして出会った皆さん。どんな時も私を否定することなく、あたたかく受け入れてくださり、ありがとうございました。おかげで、全国どこに行っても味方がいる、という安心感を持てるようになりました。
最後に、「宗教」というものに強く触れるきっかけをもたらしてくれた夫。あなたが居なければ、「宗教」についてここまで深く考えることも、「宗教のある生活」を体験することも、「宗教のある人生」を選ぶこともありませんでした。本当にありがとう。
あなたの宗教観と、私の宗教観、似ている部分もあれば、違う部分もあると思います。そこに対する対話をこれからの人生でも 楽しく愉快に重ねていけたら嬉しいです。
おしまい。