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プロローグB;モアモア文明から 適々文明へ

#2

1 モアモア文明、度が過ぎるとモノみな悪になる

 「モア、モア」とは「もっと豊かに、もっと便利に」という意味です。いわゆる近代化とは科学技術の進歩と産業経済の発展によって、高性能の機械や設備が生まれ、優れた組織やシステムが誕生し、人々の生活が次第に豊かになり便利になっていく過程といえますね。ところが近代文明の進歩発展は目ざましく、驚くほど豊かになり便利になりました。さらにコンピューターが発明されてその応用技術が多分野に及ぶと、一段とスピードを増して今や「豊かさと便利さ」は十分過ぎるほどに成長し普及しました。その象徴的なものがスマートフォンだとは前にも述べましたね。

 しかし、「度を過ぎるとモノみな悪になる」という諺があるように、あまりに豊かになり、あまりに便利になると、ある時機を境にマイナスに転じてしまうのです。とくに現代のスピードの速さは予想外です。新技術や新商品が次々と生まれ、人々はその変化への対応に大わらわで忙しく働かねばなりません。「忙」とは「心を亡くす」と書きます。本来持っていた大事なものを失いかねません。人間的な暮らしをしている暇がない、ストレスの余り心身ともに不健康になる。そのうえ、人間のできることまで機械がやってしまうので仕事を失う、そして、人間に生来ある能力や感性も劣化してしまうのです。

 フランスの生理医学者、ノーベル賞受賞のアレクシス・カレルは、かつてこういいました。「人間は、もう現代の文明の進歩についていくことはできないし、文明が進めば進むほど人間は退化していく。であれば、文明が果たして人間を幸福にしているのか、不幸にしているのか、はっきり見極める必要がある」と。

2 「不易流行」 変わらないものと変わるもの

 そこで、あらためて「文明とは何か」を考え直してみましょう。
 文明とは、一言でいえば、道具です。神様が造り出したものではありません、人間が創り出したものです。より良く生きるために造り出したものですね。資本主義も自由主義もいろいろの法律もシステムも文明の一部です、その文明があまりに巨大になり複雑になってしまったので、人々はその大建築に恐れをなして、その前にひれ伏してしまっているのかも知れません。手段が目的になり、道具が主人になってしまった例といえましょうか。

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 さて、「不易流行」とは何か、「不易」は変わらないもの、「流行」は変わっていくもの、ここではそのような意味と考えてください。

 人間の歴史を大観してみると、その営みそのものは、いつの時代も変わりありませんね。人類は、200年前も、1000年前も、同じことを繰り返して生きてきたのです。この世に生をなし、育ち学び、仕事していく、男女はひかれあい恋をし結ばれ、子供をつくり育てます。日々飲み食いし、泣いたり笑ったり、寝て起きての繰り返し、大小の失敗や成功に落ちこんだりのぼせたりして数十年、いつかは老いて「ハイ、さようなら」とあの世行きとなります。それは人として生きることの実態であり、古今東西変わらない実態です。

 変わるのは舞台の方ですね。都市や町や村、住まい、仕事場、大道具や小道具が変わっていきます。社会の法律や制度も変わる、環境も思想も変わる。つまり文明のありようが時代によっていろいろ変わる、「流れ行く」のです。しかし、人間そのものの生きる営みは変わらない。ですから、万葉古今の歌や戦国時代のドラマでも、江戸時代の文藝や芝居でも、人間の生きざまを映した物語や伝記など、古典ともいうべきものは時空を超えて、いつ見ても聞いても人を感動させ共感させるのです。

 人間が生きるということは変わらない、そのことを忘れると間違えるのです。

3 「主人」は誰ですか?「召使」は誰ですか?

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 ここで禅語 「主人公!」の登場です。この言葉にはこんなエピソードがあります。

 古代中国の唐末ごろに、瑞巖という和尚さんがいました。そのお坊さんは、毎日毎日、こう自問し、こう自答したといいます。
「主人公!どこにおるか」と、自分に問いかけるのです、
「はい、ここに居ります」、と自分で応える・・・
「目は醒めておるか」
「ハイ、醒めております」
「寝ぼけるでないぞ、騙されるでないぞ、のぼせるでないぞ」
「ハイ、ハイ、ハイ、わかりました」 と、ね。
 
 それほど、人間は忘れやすく、寝ぼけたり、だまされたり、のぼせやすいということでしょう。この言葉は、今日においても、そのまま通用する大事な諫めです。世の中は嘘、騙し、詐欺などがウヨウヨしてます。個人の間でもそう・・・うわさや蔭口、ねたみそねみから、まさかという嘘までがまかり通っていますね。国際間ではさらに大きな嘘や騙しが堂々と横行しています。
 マスメデイアも油断がなりません、宣伝文句はむろん怪しい。手を変え品を変え実に巧妙です。多くの人がコマーシャルにつられてつい買ってしまう、いらないようなものでもね。そして、いつのまにか購買消費ロボットになってしまうのですね。
 少額のものなら大した被害はないのですが、車や住宅、教育など大物になると、ローン返済のために何年も何十年もそのために働く羽目になる、自らローン奴隷になってしまうのです。

 かつて、福沢諭吉は「独立自尊」といい、夏目漱石は「自己本位」といいました。フランスの思想家モンテーニュもこういってます。「この世で一番大事なことは、どうしたら自分が自分のものになりきれるかを知ることだ」と。

4 「適適」 ぴったり、ほどほど、よい加減

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 では、どのように文明と付き合うか、マイナスを避けてプラスの果実を享受していくか、それが問題です。そこで見つけたのが「適」の一字です。ほどほどに付き合う、適度を保つ、偏らない、論語にある「中庸」にも通じる言葉です。これまでは「もっと、もっと」が合言葉でしたが、それが不適切になってきたのです。もう「量」だけに頼ってはいられません。数字で測れるものばかりじゃない。GDPや偏差値やランキングは卒業して、より高度なものさしを求めましょう。

 孔子は「過ぎたるはなお及ばざるものあり」といい、ゲーテは「豊かさは節度の中にだけある」といっています。「適度」が大事なのです。この図ではより具体的に四つのケースを挙げてみました。

 まず「適性」、性に合うもの、好みやセンスにあうもの、フィット、ぴったりですね。適質といってもいい、質のいいもの、ハイクオリテイ、美しいものですね。
 次に「適量」、ほどほど、よい加減。多すぎても少なすぎてもダメ。
 次が「適処」、適材適所、食も衣も住も自らに適したもの。処変われば品かわる、郷にいれば郷に従うことも肝要です。
 それから「適時」、タイミングです。四季折々、年齢相応、青・壮・老年にそれぞれにふさわしいものがある。

 そして「適度」のスピード、これがとても大事です。
 現代は速すぎるのです。変化が速すぎて人間がついていけません。「もっと速く、もっと速く」は「近代進歩教」の呪文ですが、いまや高速度の機械に振り回されているように思えます。人間さまには人間さまに適したスピードがあるのです。時には走るけれど、通常は歩くのが人間的です。悠々たる遊歩、いいですね。子育て、人材育成、教育の場合はとくにそうです。知識や技術の伝達は速成できても、人間そのもの、人格とか品位とか風格とか魅力とかは速成できません。芳醇なワインのようにじっくり熟成させるゆとり、適正な時間が必要なのではありませんか。

 ロケット開発の父といわれた糸川英夫さんは30年も前にこう述べています。
「かつて人間は宗教の束縛によって精神の自由を奪われていたが、現在人類は再び自らのつくった呪縛によって危機に瀕している。その呪縛とは何か。テクノエコノミーという価値観である」と。
いまや私たちは「技術と経済の進歩発展信仰」から解放されるべき時に来たのではないでしょうか。

予告

 次回は、いよいよ本題である「幸福」への序曲です。そして、次々回からは、人生を大いに楽しむ「百楽の交響曲?」に入っていきたいと思います。

【毎週土曜朝】発信

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