見出し画像

私が育った場所


私の両親は、酒屋とは名ばかりの生活雑貨を売るお店をしていました。商売を始めたのは、私のおばあちゃん。電車の駅まではバスで20分、その当時もちろんコンビニなんてないし、お店の裏には高級住宅地が開発されたりして、おばあちゃんの時代はけっこう儲かっていたようでした。

父が店を継いでしばらくたったころ、バブルがはじけ、コンビニもたくさんでき、高級住宅街にいる人たちは現役世代を終え、そんなに買い物をしなくなり…。みるみるうちに商売は傾いていきました。

それでも、真面目一徹の父は、沖縄から健康食品を仕入れて、同じような地域の酒屋さんに営業して卸したり、チラシをつくって月に1度特売セールをしたり、お父さんの友達で巨峰を作っている農家さんから仕入れて、年に一度ブドウ祭りをしたり…。色んなことをしていました。

それでも、市場の変化に追い付いていくことができず、どんどん生活は厳しくなる一方。月末になると、父は支払いのことでカリカリして母といつも喧嘩をしていたし、母はいつも離婚したいと言っていました。

娘の立場から二人をみていて、不甲斐ないなぁ、と思っていたのがその当時の正直な気持ちです。(今思えば、ほんと感謝しかないのだけど。)

生活が苦しいなら、お父さんも外に働きにでたら?お母さんも離婚したいならしたら?と、どストレートに思っていたものです。



父と母がしていたお店には、子どもや犬の散歩をするご近所さん、ふと誰かと話がしたくてくるおばあちゃんが、よくいました。

私は、お店の裏でお母さんの接客が終わるのを待ったり、仲がいいお客さんだったら一緒に話をしたりしていました。お店のレジ横で、お母さんとお茶を飲んで、学校であったことを話すのが日課だったし、幸せな時間だった。冬は寒いし、夏は暑いんだけど、いつもそこに座って、お母さんと話したかったのを思い出します。



両親は、お店と生活空間の間に置いてあった商品棚の裏側、お客さんに見えないところに、近所の子ども達の名前を書いたメモを張り付けていました。間違えた領収書や、古くなったチラシの裏側に書かれた子どもたちの名前。「店の前を通る子どもたちに、名前で声をかけてあげたいから。」と。

この人たちの、子どもでよかった。幸せだと、そう思いました。



赤ちゃんのころから成長を知っている、お店に来てくれていた娘さんが妊娠をして来月出産するそう。

お店は、消費税が10%になるときに表示変更など、もうやりきれないと店をたたみました。あの娘とあの娘のベビーにお店の軒先で会いたかったな、なんて思ってしまいました。


#家族の物語

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?