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敗金主義者の時間

 マネーを稼ぐとさらに欲しくなるのがマネーである、と言ったのは誰だろう?考えるまでもない、それは敗金主義者である私である。もっとも、似たような表現や感情や諺なんかがあるかもしれない。思いつきが案外的を得ていることもあるだろうし、人間の経験なんかはきっと古今東西似たようなものだろうからそうなっても不思議ではない。ちなみに、私はそんなこと思ったこともないし、さらにマネーが欲しくなる程稼いだこともない。思いつきほど碌なものはないのかもしれない。
 
 さて、前置きはいいとして、今回は皆さんが一度は考えたことがあるだろう話をしたい。
「金で買えないものはない?本当に?」
 この高度貨幣社会において金は絶対であり、全てであるからして、大概のものは金を払えば買える。物は特に買える。大体全てと言っていいほど物には値段がついている。ついていなければ自分でつければいい。
 ある人は愛も買えるというかもしれない。ところで、愛ってなんだろう?それは次回敗金主義者がばしっと簡潔に、実にわかりやすい尺度で説明するだろう。
 そして、心も買える、という人がいるかもしれない。ある人は安心も買えるというかもしれないし、命も買える、と言い張る人もいるかもしれない。
 どうだろう?
 比喩表現で考えればなんでも買える、とは言える。
 しかし、現実はどうだろうか?
 なるほど、愛も心も安心も買えるかもしれない。
 しかし、やはり買えないのは「時間」であろう。命もその括りに入ると考えられるから、命もそうだと言える。いくらお金を払っても現実に過ぎ去った時を手に入れることはできないのだ?なぜか?
 そう、答えは簡単でお金は人工物であり、時間は「ことわり」「理」であるからだ。理とは人では変えられない自然の法則、と私は定義している。人の作りしお金という概念がことわりを変える事はできないから、お金で時間は買えない、ということになるのだ。
 当たり前のようなことだが、多くの人はこの「理」を意識していないのでは、と感じることがある。特に若い人は時間を無駄にしがちだ。時は金なり、という諺を本気に捉えているのではないだろうか?比喩表現としては秀逸であるが、時間は金なんかよりもはるかに価値のあるものであって、切り売りするものではないのだ。大切な時間をもっと考えてほしいと、敗金主義者は思うのである。
 時給いくらで働く、時給換算ではこれだけにしかならない、そんな基準で物事を捉えすぎてしまうと、自分の時間、自分の命の値段がそう捉えられた気になってしまう。あなたの時間はそんな物では測れないほど価値があるんだ、と声を大にして敗金主義者は言いたいのであった。
 今回はここまで。

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