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新しい資本主義と愛

 新しい資本主義がわからない。そして、愛もわからない。それが今の日本人の大半ではないだろうか?どちらもふわふわしている。そして、どちらにも実は興味がないのである。政治家や官僚は自分達の考えが正しいと思うから「経済とは何か?」を押し付ける。そして、愛を語る人間も自分の考えが正しいと思うから「愛とは何か?」を押し付ける。
 そのどちらも行う人間がいる。そう、敗金主義者である。もうどうしようもないのである。放っておくほうがいいだろう。まぜるな危険をあえて混ぜて、触れるな危険をあえて押し出す。拝金主義者ならば賢く立ち回るところを、それが出来ないからこその敗金主義者なのであるが、ただ思いつくままに書いてしまうのである。
 
 さて、物事には本質があるわけで、資本主義にも、愛にもそれはある。言葉にできる、故に誰かに伝わる。しかし、言葉にしたら価値が薄れてしまう矛盾も抱える、特に愛は。新しい首相が新しい資本主義を明確に説明出来ないのもその辺にあるのでは、と邪推してしまう。ハナホジ
 経済の立て直しは簡単だから後回しにして、愛に取り掛かろう。
 前回「愛=時間」論の話をした。
簡単に言えば、愛する対象と重なりある時間を人は「愛」と捉える、ということである。「恋」とも違う(その説明はまたいつか)。「愛し合う」とはお互いに思い合う以前に、時間の共有がなされており、なおかつ、これからも双方時間を共有したいと願っている事をいみしている。神の愛もそうだ。神がいつも自分のそばにいて、尚且つ自分も信仰を捧げているのであるから、その時間の共有が「愛」なのである。
 このように考えると、愛に悩んでいる人にこうアドバイスができるであろう。
「その対象にあなたの時間を共有できますか?できるならばそれは「愛している」でしょう。」
 あなたの時間とはすなわち、あなたの命のことでもある。仕事と私とどっちが大事なの?とはこれを指している。これを言う人は直接的な愛を求めているようだが、言われた人は一緒にいられる時間を作り出すために仕事しているんだけど、とすれ違いが起きるのである。これは親と子でも起きるすれ違いだろう。間接的な「愛」には解釈が伴いそれがすれ違いを生むのだ。なんとも難しいことだが、「愛=時間」論を踏まえていれば整理はつけられるのである。

 話は唐突だが、新しい資本主義はうまくいかない。なぜなら、新しい思想が含まれていないから。今あるのが願望であり、欲であるからして、思想とはとても言い難いもので成り立っているのであるから自ずとうまくはいかないのである。
 思想があれば広がりを生む。共産主義という思想が日本のアニメを一役をになったが故にここまで発展した経緯を鑑みても、経済思想が芸術を生むこともあるのだ。むしろ、それでこそ思想と呼べるのである。
 その思想がなければうまくはいかないのだからよく考えてもらいたいものである。愛も思想、宗教も思想、経済も思想、そして、敗金主義は妄想…。
 今回はここまで。

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