見出し画像

敗金主義と成果主義

 物理世界では因果関係が比較的すっきりしている。何かに力が働けば、それはその力に応じて何かに影響する。だから、何かの影響を分析すれば、過去に何が起きたかおよそ推測もできる。これは信頼感がある法則であるが、これが人間世界では大きく異なるから物理世界の法則で物事を考えると人間世界では生きづらくなる。なぜなら、人間世界では因果関係が人間によって(そう特定な人間によって)ねじ曲げられることが常だからだ。ある人が白といえばカラスも白くなるそうだし、権力者や勝者は時間軸さえ捻じ曲げる。過去に起きた真実は、ある特定の人間に都合の良い事実に変わってしまう。これは芥川龍之介の「藪の中」のようにある事件が見方によって変わってしまう、と言った多視点の話ではなくあくまで真実を真実と認めつつ、事実に変えてしまうと言う意味であるが、人類の歴史とは概ねこのようなことで形作られていくものである。
 これは、「人類の歴史」と言ったマクロの視点だけではなく、「個人の歴史」と言ったミクロの視点でもそうであって、自分の成果でさえ誰かの手柄にされてしまいがちだし、誰かのミスを自分の責任にされてしまうことも少なくないだろう。物理世界の因果関係は信頼できると言った価値観を持っていると尚更、この理不尽な人間世界の法則に悩んでしまう人は多いと思う。
 当然だが、このギャップが不和を生むのである。
 そのギャップが人を動かし、人の歴史を作ってきたものまた真実であろう。日本の武士政権の成立、アメリカ独立戦争、フランス革命、ロシア革命、アメリカの公民権運動、学生運動などなど世界の変革は無責任に決められた事実への反発から生まれているのである。権力者や勝者が無責任に振る舞うと後々その反動が生まれる。恨みつらみもあるだろうが、それは当事者しか感じ得ない、しかし、無責任と不道理は多くの人の共感を得るので大きなうねりとなるのである。
 だから、統治者には道徳心が必要になってくるのだろう。
 さて、上記のことを踏まえていれば成果主義とはこの信頼感がなくてはうまくいかないと理解されると思う。やっても正当に評価されなくてはやる気はなくなり、主義自体が成り立たなくなっていく。原因と結果の因果関係に正当性がなければ機能しないと言うわけだ。また、仕事に対する責任もしっかり取らなければならなし、失敗があればそれ相応の責任が生じる。このどちらも機能しなくてはならない。
 さて、最近のニュースで年金受給額が下げられたと言うことだが、その理由が現状の物価変動や賃金変動によるという。なるほど、一見理にかなっていそうだが、その物価変動や賃金変動にコミットしている存在、年金の受給額を決定している存在の責任はどうなるのだろうか?マネーを絞っているのは、年金額を決めている存在と一緒じゃないのか?その存在は物価変動や賃金変動で自身の賃金を公平に正当性を持って変動させているのか?

 人間世界の法則は人によって如何様にもねじ曲がるのである。
 誰も責任など取りはしない。 
 さて、そうなると世界はどうなるか?歴史は何を示しているのか?
 そこをよく考えてみたい、と成果主義には反対しないけど懐疑的な敗金主義者は思うのであった。
 今回はここまで。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?