四十六億年草

 
何にもなれないならせめて何にもならずわたしのままでいようと思ったのに、わたしはわたしのかたちを保つこともできずに骨をひとつ、ふたつ、歪めている。
 
 
 
背骨が曲がったままじゃ額縁に入れないらしい。
 
曲がった背骨に詩情を植え付けては枯らしているこの時間を、美しく咲いた多年草たちが輪廻と呼ぶから根こそぎ掘り起こしてめちゃくちゃにしてやろうかと思う。
美しくしゃんと立つひとの背中の芯が何でできているのか知りたくて、でもどうせ、知ったところでそれなら曲がったままでいいって蹲って地面に詩を書いては風に消されるだけ、なのでしょう。
 
 
遥かミライでヒトが絶滅してここがもっと賢いいきものたちの星になったとして、博物館にいつかの骨ですと飾られるのはどうせわたしの骨じゃなくて、だから生きているうちに見つけてほしい。
わたしたちが勝手に尊ぶかつてのいきものたち、と、おなじように確かに生きていたはずの(まだ)名前もないきみ、の脊椎に咲く花が、どうか枯れませんように。








生活になるし、だからそのうち詩になります。ありがとうございます。