0501、あきらめられない病とやさしいだけのクリニック

 
五月病ってわたしかかったことありますか、って、聞きたいけど主治医とかいない、通うならキリンの先生のところがいい、たぶんゆっくりやさしく話してくれるだろう。ながい首をぐうっとまるめて、できるだけ目線を合わせてくれて、小さなめがねをかけている、キリンの先生。看護婦のミーアキャットは無愛想だけどめんどうみが良くって、わたしは小さな待合室のみどりのソファに座って、おなじ病のペンギンとひそひそ天気のはなしをしたりするのだ、
そういう、そういうところをかかりつけにしたい、仕様のないくらい、ケンコウだから。
 

詩のなかに犬がたくさんいて猫はいつも生活のなかにはいないのは、わたしが犬とは同じところに住んでいたことがあって猫と暮らしたことがない、こととは関係がなくて、わたしがどちらかというと猫よりも犬になりたいことのほうに影響されているのだと思う、と、スピッツの猫になりたいをうたいながら考える、
生きていると(一度)やめちゃったものや飽きちゃったものがいくつもあって、ギターはそのひとつだったりする、あきらめた、と言わないのは、しぬまでにもう一度手に取ったりするかもしれないから、そういう意味でわたしは、いままで、あきらめたものはたぶん一個もない、恋のひとつさえも、あきらめるくらいなら突っ込んでいって壊してなくしてしまう、しつこくて理屈っぽい、かわいいおんななので。
 
 
このせかいにいない、キリンの先生、先生が結婚していないことにわたしはたぶん安堵して、きょうも夢の中、へんな色の電車を乗り継いでちいさなびょういんに通います、先生は、ときおり好きな詩を聞かせてくれるくらいで、なんのお薬もくれないけれど、それは、わたしが、健康だからです、
これを読んで、わたしが先生に恋をしていると、だから安堵するのだと思うひとと、わたしの、どちらが、病をかかえているのでしょうか。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


生活になるし、だからそのうち詩になります。ありがとうございます。