「シェリー」

 歌が聞こえる。

――甘い 甘い ハチミツ とろけるような ハチミツ 夕焼けを映して わたしを満たしていく

 手つかずのままの高い丘が広がっている。登って見下ろしてみれば、きっと穏やかな海が目に入るだろう。だが、誰ひとりとしていない。足跡さえ皆無。そこには紛れもなく桃源郷があった。
 まだ歌は途切れず、か細く、眠れるほどきれいに続いている。緑の輝く草木の葉がそよそよと吹くやさしい風に揺れていた。その緑の間、丘の中腹、仲間と群れることなく一輪のガーベラが寂しそうに楽しそうに、ひっそりと身を隠すように謙虚に咲いている。小さいながらも凛と背筋を伸ばし、胸を張っていて、「孤高」の二文字がよく似合っていた。その様はひと際鮮やかで彼女のところだけ舞台の上、中央でスポットライトに照らされているかのよう。彼女はいつだって主役。丘の住人たちはヒロインが誰だかわかっていた。
 ガーベラの名はシェリーと言う。生まれてからずっとここにいて、いつも夕暮れから夜明けまで唄っている。どうして歌えるのか、また、どうして歌を知っているのか彼女自身もわからない。花咲いたときにはもう唄い始めていた。
 西から黒い闇と薄汚れた白い雲が段々と迫ってきている。もうすぐ夜に染まる。勿論、今宵も彼女は唄う。
 シェリーは毎日、それはそれは美しく甘く薫るような声で唄うので、ありとあらゆる生き物、虫も鳥も草も木も皆、彼女のけっして明るくはないが心地よい歌声を耳にしては、ある者は酔いしれ、ある者はため息を漏らし、ある者は羨望の眼差しを浴びせ、そして、最後には一様に褒め称えるのであった。蜂やカラスは羽を休め、鈴虫やコオロギは鳴くのをやめ、元々音を立てない雑草やリンゴの木もいっそう静まり返り、シェリーが唄い終えるまで動くことを忘れ、黙ってその時を過ごしていた。夜を包む穏やかな光を見るように。
 自作の歌や、目に浮かぶ光景で作った即興の歌や、まさしく風の便りで知った歌をシェリーは唄う。鬱陶しいほど暗く、悩み飽きるくらい気分が沈んでしまいそうな詞や旋律ばかりなのに、彼女が唄うと途端に花が咲いたように、春の訪れを告げるように、きれいに麗らかに放たれる。ロックンロールのドラムのように叩きつける雨の日も、さらうように吹き荒ぶ風の日も、景色を一変させるように降り積もる雪の日も。環境の激しさをものともせず、いったい何処に秘めているのか、細い体から強く、しかし、やはり夢のごとく儚く透き通る声を響かせていた。
 けれども、どんなにこだまする歌声でも、ヒトの耳には不思議なことに聞こえない。何も遠く人里から離れているからという距離の問題ではない。ヒトには感じない波長でシェリーは唄うのだ。だから、ヒト以外の生き物だけがその楽しみを享受していた。
 毎晩がパーティー。贅沢で唯一と言ってもいい、素晴らしい宴。酒や料理がなくたって、シェリーが唄いさえすれば、生き物たちにとってそこは楽園だ。彼女はまるで魔法遣い。その一輪に秘められた力は太陽や月や星といったどんなに詩に詠われた存在よりも魅惑的だった。
「シェリーさん、ご機嫌よう。今日も素敵な歌ですね」
 たそがれ時。今日も歌声につられて飛んできた一羽のオオムラサキが彼女の周りをぐるりと羽ばたきながら声をかける。シェリーは唄うのを止めずに、花びらを小さく揺らし微笑んで、オオムラサキの挨拶に答えた。
 歌を合図に続々と生き物たちが集まってくる。草木は次第にお喋りをやめ、太陽が半分、海に身を隠す頃には、丘に響くのは彼女の声だけになった。
 一瞬の閃光。空から駆け下りる歪な柱。太い稲妻の轟音。そのあと、急速にやってきた黒い積乱雲が泣き喚きだした。虫や鳥たちは逃げまどい、草木たちは身を固めじっと激しい雨の攻撃に耐えた。シェリーを除いて。彼女は声をけっして途絶えさせようとしない。かといって、豪雨に負けまいと音量を上げることもない。粛々と厳かな儀式のように唄う。嵐は朝までやまなかった。シェリーの歌も。
 歌が終わって眠りについていたシェリーが目覚めると、雨上がりの丘は玉の露で飾られ、きらめいていた。しかし、悲しいことに丘のふもとが雨によって削られ、大木が一本、倒れてしまっていた。彼は長年、丘を下から見守っていた長老のような存在だった。生き物たちは彼を悼み、めいめい黙祷を捧げる。
 シェリーはいつもと違って陽が昇る時間に唄い始めた。およそ光に似合わない陰鬱なレクイエムを。老木を想って唄う彼女はより美しかった。薄いピンク色の花びらがあまりにも鮮やかで、不謹慎にも亡くなった彼のことを忘れてシェリーに見とれる生き物たちも少なくなかった。昨日と打って変わって暑くなったが、彼女は何食わぬ顔で唄う。ずっと。喉が嗄れるほど長く。疲れた彼女は珍しく夜、すぐに眠ってしまった。生き物たちも葬儀だったということで、宴も望まず早々に眠りについた。
 白い渡り鳥の群れが北の空へと飛んでいく。果たして何処から来て何処へ行くのか。誰も知らない。その中の一羽が体に付けていた花の種を老木の倒れたあとにそっとサンタクロースの贈り物のように落としていった。剥き出しの土の上に蒔かれた種は程なくして根を生やし、芽吹いた。偶然にも、彼もまたガーベラ。やがて来る、明るい黄色の花を咲かす日を待っていた。生き物たちは新たな生命の訪れを歓迎し、静かに見守る。毎日、草木は彼の様子を虫や鳥たちに尋ね、仲間の成長を心待ちにした。
 シェリーの歌を聴いたせいだろうか、彼はすくすくと育ち、すぐに開花した。だが、彼は口を開かない。一言も喋らなかった。隣に生えていた背の高いコスモスが年上ぶって質問をしたり、この土地のしきたりを教えたりしても何の反応も示さないのだ。堪りかねたコスモスは無視を決め込んだ。ほかの生き物たちもせっかくできた同胞が馴染もうとしないのを非難し、やがて関わろうとしなくなった。
 豪雨というあの災難に見舞われてから一年が過ぎた。シェリーは相変わらず欠かすことなく唄っている。けれども、シェリーは初めて出会った同じガーベラとして彼が気になってしょうがなかった。それは表情には出さなくとも歌に表れ始めていた。彼女の歌は精彩さを欠き、美しい調べも曇り、周りが心配するほどまでになった。新月の夜、遂にシェリーは唄うことをやめた。酷く思い詰めているのが誰の目からも容易に感じ取れた。二日、三日、四日経っても再開しない。七日目にして、天高くからシェリーの歌を楽しみにしていた神様が彼女に声を掛けた。
「いったいどうしたんです。もう一週間も唄っていないではありませんか。いつものあなたならどんな日だって唄っている筈ですよ」
「神様。わたしが唄っていたのは何も自分が特別であることを誇りたかったからではありません。むしろ自分には唄うよりほか何もないと嘆いていたのです。苦し紛れの諦念です。本当に喜んでもらえていたでしょうか。本当に楽しんでもらえていたでしょうか。わたしにはわかりません。けれども、優しい皆は褒めてくれました」
「いいじゃないですか。わたしもあなたの歌を毎日、心待ちにしているひとりですよ」
「ありがとうございます。でも、傲慢なのは承知ですが、丘のふもとに咲いたあの花だけは違うのです。わたしと同じガーベラ。彼だけはわたしの歌を聴いてもほかの生き物たちと違う反応を示すのです。あの花は笑いません。あの花は望みません。あの花は語りません。どうしてでしょう。そう考えると唄う気になれません。だから、一度でいい、彼に会って話を聞いてみたいのです。とはいえ、ここで花として根を生やしている限り、一生願いは叶いません」
「そうですか。ふうむ……」
 思い詰めたシェリーの告白を聞き届けた神様は腕組みをし、思案を巡らした。しばらくして、わかったという顔でうなずくと彼女に一つ提案を切り出した。
「それならば、わたしが仲介するより、あなたが彼に直接、聞いてみるといい。あなたをそこから解放してあげましょう。ただし、特別です。二度と元の姿に戻れなくなりますがその覚悟はありますか」
 シェリーは消え入りそうな声で「はい」とだけ答えた。
 返事を受け取った神様は魔法の言葉を唱え、見えざる手により彼女を蝶へ変えた。花の姿のときと同じくらい美しかった。
 蝶となったシェリーは初め、飛ぶことさえままならず、ふらふらと草や地面に羽をぶつけた。危なっかしいシェリーを見つけた蝶たちが助けようと駆け寄ってきたが、彼女は口を閉ざし、一心不乱に羽ばたいた。
 彼は何処。
 丘の下を目指して、シェリーは草花を掻き分け、舞う。いつもと違う新鮮な光景に目もくれず無我夢中。遥か遠い地に竜巻を起こすほどの勢いで。
 ほんの数十メートルが永遠にも思え始めた頃、ようやくシェリーは彼に出会えた。心に留めてきた思いを伝えようとして深呼吸をして息を溜めたところで、大きな、余りに大きな影が忍び寄る。楽園の侵略者、地獄よりの使者、天国を蹂躙する悪魔、その名はヒト。
 地元の者なら踏み入れない土地。けれども、それを知らずに旅をしていた欲深いヒトが、野に放たれた世にも美しき蝶を見逃す筈がなかった。哀れ、馴れた手つきで網によってシェリーは捕らわれ、異国の家に持ち帰られると、華やかな羽にふさわしい立派な装飾の額の中に閉じ込められ、彼女はその生涯を終えた。
「蝶になった君は僕を求めてやってきた。なのに……、なのに……。思っていたとおり、僕の花びらにとまった君はとっても綺麗だった。だけど、僕は近づけなくたっていい。見つめられなくたっていい。声が聞こえれば、この丘にガーベラのまま咲いていてくれさえすれば、それで満足だったんだ」
 ヒロインを失った楽園で彼を責めるものは誰もいなかった。そして、彼も神を恨まなかった。皆が甘い思い出を秘め、各々の暮らしを続けることにした。
 シェリーが去った丘に歌はもう響かない。

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