「ギターと約束と」

 明かりをすべて消した薄暗い部屋の隅で、ヤマハの黒いアコースティックギターがほこりを被って静かに泣いている。ひっそり台座にもたれかかって声も出さずに、黙りこくっている。寂しげに、哀しそうに。
 たしか、リサイクルショップで買った初心者用の安物。所狭しとたくさん並んでいたけれど、ただ黒いのがかっこいいという理由だけでそれを選んだ。
 併せて手に入れた教則本を前にして、毎日のように練習したけれど、ちっとも上達しなかった。指が思うように動かないのがもどかしかった。つまらないと言っては投げ出し、また手に取り弦を爪弾いた。それでも、上手くならない。よく諦めかけていた。でも、ある理由があって、ギターをものにしたかった。そう、あなたの為。
 あなたの前で歌おうと決めていた。だから、なんとか続けたが、結局コードを三つ抑えられるのがやっとだった。これじゃ、何も弾けない。曲にならない。あなたに聞かせられない。
 僕は途方にくれて、黒いギターを眺めていた。薄汚れた表面が憎い。自分が手入れをしていないだけだ。それなのに、心が落ち着かない。過去が僕を縛る。
 僕の大好きな人の大切な歌を、あなたにぜひ聞かせたかった。愛を歌う歌を、強く、やさしく、甘く届けたかった。それだけの為に。僕はギターを買ったんだった。
 しかし、あなたとの蜜月は長く続かなかった。今となっては伝えられない距離になってしまった。もう終わってしまったんだね。今でも思い出すよ。最後の言葉を。涙なしには言葉を出せなかった。
 あなたは今どうしているだろうか。あの日、冬が終わる頃、連絡をたってもう二年以上が過ぎた。ときどき目にするあなたの日記では、辛さを垣間見せながらも元気にやっているようですね。
 僕は相変わらずぐだぐだと堕落した毎日を過ごしています。ギターはもう一切触っていません。あなたに聞かせる為のものでしたから、弾くことにもはや意味がありません。それに、もともと歌うのが好きだと言うわけではありませんから。
 でも、ギターは捨てられない。思い出の欠片は、感傷的過ぎる。たったこれだけの塊を消してしまうと、あなたへの思いまで無くなってしまいそうで、踏み切れません。
 ギターはもう目の届かないところにしまおう。がらんとした押入れに。黒いギターを見るだけで眼が痛む。心が叫ぶ。会いたいの一言を。
 寒い風の吹く川べりで交わした約束は遂に果たせませんでした。

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