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喧騒からの脱却

芋の子を洗うようにごった返す街の休日。その昼下がり。夏休みやお盆休みのシーズンということもあって、殊更に人が多い。私は割と人酔いをする質で、今日も例のごとく雑踏から逃げつつ避暑地、もとい落ち着ける喫茶店を探していた。

喫茶店を探すといえど、徒らに歩き回る訳にも行かない。しかし、喫茶店を探す際に私の中で決めているルールが2つほどある。

1つは絶対にルート検索をかけないこと。2つ目はその場の直感に従うことである。スマホ世代でありながら、インターネットで検索をかけないのかと疑問に思われる方もいるだろうが、それには理由がある。まず、私はアンティークな雰囲気のある喫茶店が好みで、店の外観、内装含め、その全てに自らが見どころを見出したいという信念があり、それを誰某かの口コミや助言やらに煩わされたくないのである。(まぁ、喫茶店の感想をSNSに垂れ込んでいる時点で私も誰某のうちの一人になってしまうのだが。)次に、検索をした地点からの距離がわかったとして、それは私の判断基準項目のいずれにも該当しないからである。道すがら偶々出会った喫茶店に行く。それこそが喫茶店探しの醍醐味である。スマートフォン様が「あぁ、その角を曲がった方に別の喫茶店があるのに」だの、「その道を進んでも喫茶店はございませんよ、所有者様…」だのと仰せなら、その醍醐味は損なわれてしまう。うるさい!黙れ!と一蹴せねばならない。便利さを捨てた先にだって、きっと趣がある。私はそう信じたい。

2つ目のルール、その場の直感に従うことも私にとって非常に重要な項目である。事前の情報をシャットアウトするルールを採用しているために、頼れるのは自分の直感のみなのだ。喫茶店をいくつか見つけたとしても、月並みに言うのなら、ビビッと来なければそこを訪れない。そのようにセンサーを張り巡らせて歩いていると、客が喫茶店を選んでるのではなく、喫茶店が客を選んでいるとさえ思えてくるのだ。ニーチェの言を借りるなら、「我々が喫茶店を覗く時、喫茶店もまた我々を見ている」のだ。(ちょっと今のは忘れてくれると助かる。)

今回訪れた喫茶店も、以上のルールにより見つけたものであった。狭いながら人通りが多い路地の角にその店はあった。私のようにさらに人通りの多いアーケード街から避難してきた者たちが訪れそうな喫茶店。表と違って店内は仄暗い。客層は高めで、優雅な奥様方や渋めのオジ様方が語らいながらコーヒーを啜っていた。店内の空調がしっかり効いていたので、汗ばんだ肌が心地よく冷えていくのが感じられた。

渡されたメニュー表を見ながら、汗が引くのを待ち、私は悩みに悩んでホットコーヒーを頼んだ。400円で一杯を飲むよりも、500円でダブル、要はポットでおかわり分を提供してもらえるのならと、ダブルを選んでしまった。そこまで、お腹が減っていないのに、だ。貧乏人の性である。

注文をしてから数分後、ウエートレスがホットコーヒーを持ってきてくれた。少し厚めに設計されたマグカップに淹れたてのコーヒーが注がれる。白い陶器にコーヒーの黒が美しく映える。銀色のコーヒーポットを机の端に置くと、ニコりと会釈をしてウエートレスは店の奥へと戻っていった。一杯目はブラックで、二杯目はミルクを入れて、ゆっくりコーヒーを頂いた。湯気が私の眼鏡を曇らせる。口に含むと比較的強い苦味が感じられ、少ない酸味は私の舌によく馴染んだ。深煎りのハウスブレンドということもあってか、店特有の味というものが出ているのだろうか。まだまだ浅学の身だなと、自分の経験不足に失笑しながらコーヒーカップを皿にそっと戻した。

会計を済ませ、店を出る。気づけば外は日が傾き始めていた。時間を忘れさせるような何かを喫茶店は持っている。そんなことを感じさせるような喫茶探しであった。忘れていた現実が雪崩れ込む。山積する課題と残された時間との間に自分なりに折り合いをつけながら、私は帰途につくべく喧騒へと紛れていったのであった。

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