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「自分はすごいんだって言おうとするのをやめたら人生が楽になったのよ」の話

「自分がすごいって認められたくて、頼まれてもいないのにアドバイスしたり、役に立つかよく分からないことを必死で勉強してしまったり。そういう時期が私にもあったわ」
 フランス人美術教師のマリーは「自分が役立たずになるのがイヤだったの」と言いながら、紅茶のカップをテーブルに置いた。何か飲むかと聞かれて、私は水を頼む。彼女はキッチンに戻って水を入れたグラスと、スライスされたチーズを持ってきてくれた。フランスのチーズは濃厚でおいしい。特にチーズケーキは絶品だ。

「新しいことを始めるとしても、若い頃ならいいわ。無条件で応援してくれる人もたくさんいる。だけど、年齢をいってしまうと、始めるだけでは誰も褒めてくれないでしょう? 時代はどんどん変わってしまうし、何を勉強すれば役に立つのか私にはもう分からなくて。
 自分は社会に必要とされているのかって不安になっちゃったのよね」
 彼女は持ってきたチーズをつまみ、グラスから水を飲んだ。グラスはスモークがかかったようにグレーの色がついていて、ガラスの中に気泡が散りばめられていた。後で聞いたら、彼女が自分でつくったものらしい。
 フランスの郊外に一軒家をもち、庭にはあふれるほどの花を育てていて、部屋に自分の絵を飾るほど自由に暮らしている彼女。とても充実した暮らしに思えるのに、人の不安は「条件」ではなくならないものなのかもしれない。
「誰かの役に立ちたかったのよね。すごいですねって言われたかった。ついいろいろ言いたくなっちゃって。本当に優秀な人ってすぐ分かるものでしょう? 年齢とか性別、人種なんて関係なくね。若くてもすごい人なんていっぱいいる。でも、そういう人たちに出会うたびに、自分がみじめな気持ちになってしまったの。私はこんなに優秀じゃないって。
 彼らはきっと、若いうちにいろんな経験をして、多くの人に期待されながらその期待に応えて、成功していくんだわって思ったの。そういう誰かの輝かしい未来が想像できてしまった時に、私は自分と比べてしまっていたの」

 徐々に優秀な人たちと出会う機会を減らしていったと彼女は言う。彼らと自分を比べてしまうのがイヤだったのだと。同時に、自分が比べられているんじゃないかと気にし始めてしまったのだと。
 私は彼女の話にうなずきながら、人は誰でも周りの人と自分を比べてしまうものなのかもしれないと考えていた。自分だってそうだ。できる人を見上げれば、世界トップなんて、世界に一人しかいないんだから。世界一があるとしたら、それ以外は全員、世界一になれなかった側の人間になる。
「かっこよく生きたかったわ。アートだって、ほんとはもっといろんなところで展示発表できるようになりたかった。でも、私はゲームから降りてしまったの。またやり始めるなんてとてもできない。自分の作品が平凡なのは知ってるわ。でもそれでいいの。今は私の絵にも、生活にもちゃんと満足してる」
「そうですね。それは暮らしを見ても感じますよ。手入れされた庭に、手作りのケーキ。ふだん使う食器も特別に選んだものだって分かりますし、部屋にも絵が飾られてますよね。
 自分が好きな暮らしを選んでいるのがよく分かるおうちだなって思いました」
「ふふ、ありがとう」
 彼女はまたチーズを取り、私にも勧めた。私は彼女の焼いたパウンドケーキの残りを食べた後に、チーズに手を伸ばす。
「誰かのことをすごいって言うのをやめたの、それだけで人生がだいぶ楽になった。あともう一つ、自分が苦しかった時に決めて、守ってることがあるのよ」
「へえ、なんですか?」

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