見出し画像

「苦しんでいる人が目につく時はもしかしたら自分が苦しんでるのかもしれないね」の話

 老人がクッキーを持ってくると言ってキッチンに行っている間、私はスマホを開いていくつかのアプリを手早くチェックする。どこかで炎上してたのか、ツイッター上にピリピリしたコメントが目に入った。自分には関係ないのに、なんとなく気になって関連記事を調べてしまう。なるほど、こういう背景があったのか。
 ドアが開く音がして、老人が戻ってきた。私は立ち上がってトレーを受け取り、テーブルまで運ぶ。老人が持ってきたクッキーはクマの形をしている。手作りだろうか。

「クマ、かわいいですね」
 私がそう言うと老人はうれしそうに笑って、友人の子どもが作ってもってきてくれたのだと言った。
「楽しいと思えるものが目に入るのはいい。幸せな証拠だ」
 老人はクマのクッキーを手に取ると、しばらく眺めた後に名残惜しそうに口にした。私もクマを手に取ったが、かわいいと思いながらも、バリバリとくらい尽くしてやりたいような気持ちも同時に生まれているのを感じていた。
「苦しいものが目につく時は、あんまり幸せじゃないのかな」
 私はクマを苛むことなく、普通のクッキーと同様に、いや、いつもより味わって食べた。
「もしも誰かが苦しんでいることが気になってしまうとしたら、本当に苦しんでるのは、誰かじゃなくて自分なのかもしれないね」
「そういうもんなんですか?」
「さぁ、分からない。少なくとも私はそうだっていうだけだよ」

 老人はさらにクッキーを手に取りながら、紅茶で喉を潤した。
「本当は苦しかったんだけど、苦しいって認めたくない時があったんだ。自分は自分の好きなことをやってるはずだ。自分は幸せなんだって思いこもうとしていた。
 でもね、なんだかその時は、何が自分にとって幸せなのか分からなくなってしまったんだよ。ただ、いい香りがするものに囲まれていれば幸せだと思っていた。あるいは、好きなアート作品に囲まれて暮らせれば。
 生活がひっ迫しているわけでもない。仕事もある。それなのになにか物足りないような。よく分からないんだ。ものすごく不幸なわけじゃないし、楽しいこともたくさんあるはずなのに。仕事だって好きだ。人に誇れるものもたくさんある。
 なのに、その時はなぜだかとても苦しかった」

ここから先は

1,731字
この記事のみ ¥ 100

ここまで読んでくださってありがとうございます! スキしたりフォローしたり、シェアしてくれることが、とてもとても励みになっています!